2017年12月7日木曜日

こんなぼく 1年 植野喬成

なぜ大学に入ってまでこんなにも過酷な環境に身を置いてまでサッカーをしているのだろうか。キャンパスの移動は面倒な上に帰りの電車は定期も使えずお金もかかるし家に着いたら金曜ロードショーはもうクライマックスを迎えている。すでにハリーポッターとヴォルデモートが戦っているのだ。そこからしか見ることのできていない僕はもう小学生の頃のようにノートに書き溜めた呪文を胸を張って唱えることなどできない。なぜそこまでしてサッカー部に入ったのか、その理由を聞けばきっとダンブルドアも納得してくれるだろう。

高校からのT辺大先輩がいたことも大きな理由であるが、ここでは尊敬の思いを抑えきれずラブレターのような部員ブログになってしまうので今回は割愛させていただく。もう一つの理由について話すために僕のこれまでのサッカー人生について話させてもらう。

サッカーを初めたきっかけは一日中トーマスに明け暮れていた僕の将来を心配して母親が勝手に近くのサッカーチームに入れたためであった。当初、末っ子の特権を振りかざし「動く」ということに対して嫌悪感を持っていたワガママ園児にとって、サッカーはとても好きと言えるものではなかった。

そんな僕にでも小、中学校とずっと親身になってサッカーを教えてくれたコーチがいた。僕が一生懸命になり切れていない時は嫌というほど怒られたけれど、どんな些細なことでも全力でやり切っていれば褒めてくれた。僕がサッカーを好きになったこと、そして何かについて取り組む際に一生懸命頑張ることがどれほど大切か知ることができ、やり切った後の本当の楽しさも理解することできたのは、紛れもなくそのコーチのおかげだった。

もう一つサッカーは素敵な出会いをくれた。それは「仲間」である。少し粋がった表現にはなってしまうが、楽しい時間を共有できれば良い「友達」と区別するために敢えてこの言葉を使わさせてもらう。表現の仕方で分かっていただけるだろうが、サッカーを一緒にしてきたのは、嬉しい時や楽しい時だけでなくしんどい練習を共に乗り越えたり、負けて一緒に悔しがったりと苦楽を共にした「仲間」である。そんな十人十色な「仲間」と一緒に色々な事に挑戦する中で、時にはすれ違ったりもしたけれど、互いに意見を出し合って、一人ではくじけそうになることも支え合い励まし合うことで乗り越えていけることがわかった。

上で述べたようにサッカーは日常的に感じることはないかもれしれないが、とてもとても大切なことを僕に教えて、これまで僕を幾度となく人間的に成長させてくれた。そして、これからも大阪大学体育会サッカー部という場で真剣にサッカーを続けることによって、また何かを得てサッカーの面だけでなく人間的な面でも成長できると思った。それが僕がここでサッカーを続ける理由だ。

最後まで読んでいただきありがとうございました。これからもこんな僕と大阪大学体育会サッカー部をどうぞよろしくお願いします。

2017年11月30日木曜日

GKと僕と 1年 内田将貴

先日、W杯欧州予選プレーオフでイタリアvsスウェーデンの試合が行われ、2試合合計1-0でスウェーデンが勝利してW杯出場を決め、イタリアが60年ぶりにW杯予選敗退を喫しました。それと同時にイタリア代表GK ジャンルイジ・ブッフォンのアズーリ引退が決まり、世界最高と言われたGKの時代の終焉というものを感じました。

紹介が遅れましたが、大阪大学文学部1回生の内田将貴です。僕は、今回GKというポジションとGKとしての僕について書かせていただこうと思います。

2014年ブラジルW杯でドイツ代表GK マヌエル・ノイアーが所謂"スイーパー・キーパー"というものを確立して以降、GKは足元の技術や高いDFラインの背後をカバーするといったタスクが増え、日本でもその傾向が強くなりつつあります。僕はここでGKのメインの役割は何なのかを考えた時、シュートを止めてゴールを割らせないことだという結論に至りました。確かに、ノイアーの様に全てをこなせるGKが重宝されるのは間違いないのですが、GKと言っても様々なGKが存在するのです。199cmの身長を活かしたハイボール処理とシュートストップが武器のティボー・クルトワや圧倒的な反射神経とGKセンス、卓越したボールスキルを持つダビド・デ・ヘアなどワールドクラスと言われるGKには何か自分の武器になるものが備わっているのです。

ここからは僕について書かせていただくのですか、今まで偉そうにGKについて語っておきながら、僕には何一つとして自分の武器と呼べるものが存在しないのです。GKとしてみると身長も高くなく、足元の技術も標準以下、シュートストップも特別得意なわけではありません。なぜそんな僕がサッカーを続けていられるのか…。その答えはサッカーが好きだからです。小中高とサッカーを続けてきて、仲間と全力でサッカーをすることがとても幸せなことだと分かりました。サッカーを全力でやれるのも残り3年。決して満足いくものではなかった今までのサッカー人生に報いるためにも残りの期間を大切にしながらチームのためにプレー出来るように頑張ります。
拙い文章でしたが、お読みいただきありがとうございます。

2017年11月23日木曜日

身体的成長 1年 中村陵馬


大学の入学前、大阪行きの切符を駅で購入しようとした時の出来事である。
これから始まる大阪での一人暮らしを前に、意気揚々とした気分で駅の窓口に足を運んだ。在中している駅員の方に切符を買う旨を伝えると、驚きの言葉が返ってきた。
「きみ、小学生?」
瞬間、私は戦慄した。大学生らしく髪を茶色に染め、ジージャンをはおり、黒のスキニーと黒スニーカーにより足長効果も演出した自分の努力はすべて無駄だったのだろうか。もちろん駅員さんも悪気があってこの言葉を発した訳では無いだろう。しかし、その言葉は初の一人暮らしを前に心踊らす私の心を折るには十分だった。

少し小話をしてしまったが、何が言いたいかというと、それほど私の身長は低く、見た目が幼いのである。

同回のM山からは、「(身長のことを)触れていいのか最初わからなかった。」と言わしめ、他の同回からはゴムチップ、またはとどろみの芝で姿が見えないなどと揶揄されるほどである。

そんな私であるが、小学生の頃から高校で引退するまで、FWというポジションをやっていた。FWといえば、キレキレのドリブルと一瞬のスピードで相手を抜き去るメッシや、圧倒的な高さと豪快なシュートで得点を奪うイブラなどを想像すると思うが、自分は一瞬のスピードで相手DFに近づきボールを奪い、その後圧倒的なフィジカルの差を見せつけられ吹っ飛ばされることでフリーキックを得るようなプレースタイルの選手だった。そんなプレーがレベルの高い相手に通用するわけもなく、自分の高校サッカーはピッチの外で終えた。それでも部活という枠組みでやる本気のサッカーは自分にとって満たされるものであったし、何よりサッカーが好きだったため、大学でサッカーをやることに何ら抵抗はなかった。

かねてより第一志望であった大阪大学に無事合格し、はじめに体育会サッカー部の体験に行った時は、そのレベルの高さに本当に驚いた。この中で自分がFWとしてチームに貢献しているビジョンが見えなかった。数日考えた末、私が出した結論はサイドハーフという新しいポジションに挑戦する、ということであった。その思考に至った過程には色々あったが、長くなるのでここでは省略することにする。そうして私の大学サッカーは新しいポジションでスタートした。

大学でサッカーをしていく中で、気づいたことがいくつかある。それは自分がどれだけサッカーのことを知らないか、ということである。今までの流れの中でなんとなくプレーしているだけで、チーム戦術や、考えてプレーすることを怠ってきたように思う。そういった面で阪大では指導者がいない分、一人一人が意識を高く持ち、漫然とやるのではなく、よりベストを求めてプレーしている。そういった先輩方や同期に囲まれてプレーすることは自分自身とても勉強になる。

また、自分がどれだけフィジカルが弱いか、ということも改めて認識させられた。いや、さっき吹っ飛ばされるプレースタイルとかほざいてたやん、と思うかもしれない。その通りである。だが高校までではそれでもある程度はやれていた。しかし大学の選手相手に感じる圧力は今までとは全然異なっていた。少し体をぶつけられただけで、まともにプレーできずボールを失ってしまう、一対一でスピードで簡単にちぎられる。今まで自分の体が小さいことを言い訳にして、それを補えるほどの努力をしてこなかった。いや、正確に言えば、足元の技術を磨けば、そういったものは必要ないと思っていた。だが、そういった小手先の技に頼ったプレーは大学サッカーでは今まで以上に通用しない。ある程度の体の強さがないと大学サッカーでは戦えない。そう感じた。

今年の総理大臣杯決勝、法政大学の右サイド8番は皆の記憶にまだ新しいだろう。試合前の整列、あれほど小さかった体は、試合が終盤になるにつれとてつもなく大きな存在となっていた。その姿に自分自身大きく感銘を受けた。体が小さくてもここまでやれる選手がいるということは、自分にとって勇気づけられるものであったし、目指すべき姿であると思った。

この部員ブログを書くにあたり、自分の考えや感じたことを見つめ直してきた。だが、当然のごとくそれらを書くだけで満足してはいけない。これから自分が阪大サッカー部に貢献できる選手になるためには、これらのことを踏まえて自分のすべきことを実践していかなければならない。フィジカル面の向上や戦術理解を深めるなどやらなければいけないことは山ほどある。そういったことをこなしていく中で、この阪大サッカー部で身体的にも人間的にも成長していきたいと思う。

2017年11月16日木曜日

もう一度 1年 中井昂世

こんにちは。今回部員ブログを書かせていただく中井昂世です。よろしくお願いします。
わたしは高校時代サッカーにあまり真剣に取り組んでいませんでした。だから大学でサッカーをするとは思っていませんでした。しかし高校の友達が大学でサッカーすると聞き自分ももう一度やり直そうと思いました。大学に入り、阪大のサッカー部に入ってレベルの高さに驚いたと同時にここなら自分も成長できると感じました。なぜなら阪大サッカー部で重要視されているのは自主性だからです。自主性は自分に最も足りていない部分だと思うしこのサッカー部の中で培っていければいいと思っています。素敵な先輩方や同期のみんなとともに成長したいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

2017年11月10日金曜日

家族という存在 1年 冨永直樹

こんにちは。1回生の冨永です。以後拙い文章が続きますが、最後まで読んで頂けたら幸いです。

 僕の家族は4人家族で、父、母、3つ上の兄がいる。父も母も医者でも何かの社長でもなく、いわゆるどこにでもある一般家庭。この場をかりて僕の家族について書いてみようと思う。
 まず父。父はサッカーに熱心な人で、兄や僕の試合にはかなりの確率で駆けつけてくれる。中学の時には遠征にも来たことがある。サッカーバカなのか親バカなのか。さらに母や母の友人が撮ってくれたビデオを見ながら一緒にプレーを振り返ってくれる。また、サッカーだけに留まらず、反抗期である僕が嘘をついて塾をサボっていた時、連絡もつかない僕を夜遅くに自転車で探しに来て、何度も何度もしかり続けてくれた。このありがたみは今だから分かる。
 次に母。さっきも書いたように、母は(特に高校時代)、毎回のように試合のビデオを撮ってくれた。他にも食事や洗濯、その他諸々の家事や、昼食の弁当など、数え切れないほどのお世話をしてくれた。今でも、食事面でかなり支えてくれている。このように僕の母は超人で、たぶん吉田沙保里より強い。
 また、これは両親どちらも言えることだが、父も母も僕が一生懸命勉強できる環境を必死で整えてくれた。僕が今まで受験で1回も失敗していないのは紛れもなく両親のおかげである。
 最後に兄。兄弟というのは歳の近い人の中では「最も身近な存在」で、人生の先輩だ。サッカー、勉強の他にも色んなことを教えてくれるし、叱るときは本気で叱ってくれる。こんな人、兄以外には知らない。あと、ウイイレが強い。勝った試しがない。

長々と書いてきたが、これでも家族への感謝は書き足りない。大学で部活を続ける人なんて少数派なのに、両親は快く承諾してくれたし、兄も応援してくれている。だからこそ、今の恵まれた環境に感謝しながら、日々レベルアップしたい。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。これからも大阪大学体育会サッカー部をよろしくお願いいたします。

2017年11月4日土曜日

一年後の理想像 1年 中嶋良和

こんにちは。
最近本と抹茶に興味を持ち始めた一年の中嶋です。抹茶に詳しい方はぜひどこか食べにいきましょう。
話は変わり、ここからは「一年後の自分の理想とする姿」について書こうと思う。僕は、1年間を勉強に費やし大阪大学にきた。つまり、浪人していたのだ。浪人期には大学でサッカーをしようか、はたまた違うことをしようか悩んでいたが、入学してからは体育会サッカー部に入ることを決めた。
入ってみると、先輩方のレベルの高さに驚き、同時に自分の実力の無さを痛感した。そして、数年後には先輩方のようなサッカーのレベル、サッカーに対するメンタルになれるのだろうかとも思った。
しかし、この数ヶ月、体育会サッカー部でサッカーをしてきて、先輩方はなるべくして今の姿になってるのだなと感じた。というのも、1人1人がしっかりと自分を持ち、みんなが対等に意見を出し合い、1つの目標に向かって一丸となって戦う姿を見てきたからだ。今は先輩方のサッカーに対する姿勢というのを見習い、ゆくゆくはサッカーだけでなく、1人の人として成長していきたい。それができるのがここ、大阪大学体育会サッカー部だと思う。
感謝、謙虚さを忘れずに、当たり前のことを当たり前にこなし、サッカーをしていきたい。
私ごとではありますが、
後期に入ってからはほどほどに授業を受け、めっちゃ遊び、めっちゃサッカーをしています。
大学生めっちゃ楽しい。ほんとうに。
長々とすみませんでした。最後まで読んでいただきありがとうございました。

2017年10月28日土曜日

脱 Myポンコツ人生 1年 上田恵佑

  こんにちは、前回の藤元よりガバガバな20歳と言われた上田です。
  一年間の浪人の期間を経て、4月より大阪大学に入学しました。浪人生活をはさんだ分、少し大人に思われたりするのだろうかと思っていましたが、そんなことなどお構いなしに、これまで約半年間の間に冗談抜きで500回ぐらい「ポンコツ」と同期から言われてしまいました。
  ナビがあっても道を間違えたり、「絶対遅れんなよ」と自分で指定した集合時間に朝電話で起こされたり、原付の受け取りにバイク屋まで自転車で行ったりなど、「ポンコツ」と言われて当然のことを繰り返してきました。
  こんな僕でも中学高校では集合時間に大幅に遅れるなどしたことがなかったし、高校に至っては、無遅刻無欠席の皆勤だけが取り柄でした。
  どうしてこんなにも大学に入って、周りから「ポンコツ、ポンコツ」と言われるのだろうと考えてみました。始めは大阪大学という大学が今までの自分にとってレベルが高く、周りが賢いから自分がポンコツに見えるだけだと思いました。しかし、実際はそんなことはなく、中学高校の間周りにしてもらってばかりだったということに気付かされました。
  今考えると、中学時代は仕事をしてくれている人の周りでボールを蹴っているだけでした。高校時代は自分はラインを引く係で少し早くに練習に行かないといけなかったのに、少し家が遠いからと適当な理由ばかりつけて自分は集合時間ギリギリで全部任せっきりでした。試合の時には、集合場所に時間通りに行けば、電車など全部調べてくれて、道も迷わずに会場まで完璧に連れて行ってくれる友達がいました。本当に何から何までしてもらってばかりで、してくれた人には本当に感謝しかないです。中学高校時代、自分は必要最低限していればいいと勘違いしていました。必要最低限も出来てませんでした。すいませんでした。反省してます。
  その点人間的成長を掲げ、学生主体を重んじる大阪大学サッカー部は本当にこれまでの自分にとって最高の環境であると思います。しかし、そんな環境の中でもこの半年間自分は周りに頼ってばかりで、主体的に行動していたとは言えません。素晴らしい人間性を持った先輩方や同期の背中を見て人間的に成長します。そして、限られた時間の中で残り3年半ただぼーっと過ごすのではなく、しっかりと考え行動します。
  拙い文章で長々とすいませんでした。最後までお読みいただき本当にありがとうございました。


2017年10月25日水曜日

全ての方々に感謝 1年藤元知史

 まずはじめに、大阪大学体育会サッカー部の一員として部員ブログを書かせていただけることを光栄に思います。
サッカー部の活動を支えてくださる方々と、これまで私を育ててくださった全ての方々に感謝申し上げます。


自分でも胡散臭いと感じてしまうほどの台詞をいきなり書いてしまったが、この感謝の言葉に偽りは全く無い。
そして、「全ての方々に感謝」というフレーズに聞き覚えがあるあなたは、中学生の頃に、あの教諭の熱血指導を受けることができた人かもしれない。

内輪ネタを失礼しました。
あの教諭とは、私が中学校のサッカー部でお世話になった顧問の先生のことである。残念なことに、現在私は教諭の連絡先を知らず、このブログに書かせていただく許可を得られていないので、少しぼかした表現をさせていただこうと思う。

教諭の下での部活とは、「学校の部活では人として成長ができないと意味がない」というもので、人間的成長が第一に考えられていた。
ここで教諭のご指導の柱となっていたのは、挨拶しよう、掃除しよう、服装正そう、時間守ろう、などといった人として当然であるべきことの数々であった。

中でも教諭が最も強調していたのは、「感謝の心」である。

「中学校のグラウンドを無償で使用できるのは、義務教育を支えてくれている納税者がいるからであるので、全ての方々に感謝を忘れてはならないし、感謝せずにサッカーをやってるだけでは成長は有り得ない」という、当時中学生の私たちが本当に理解できていたかどうかはわからないが、非常に大切な考え方を教えていただいた。

当時キャプテンを務めさせていただいていた私は、周りの大人が、「こいつは将来、変な宗教にどハマりするのではないか」と心配するほど教諭の教えに忠実に学校生活を送り、人間的成長を試みて来た。というのは半分建前で、忠実にならざるを得ないほど教諭が怖かった。

野球部に所属していた友人が、職員室の横のトイレでトイレットペーパーを転がしてボウリングを嗜んでいたところをあの教諭に見つかり、その時グラウンドで真面目に部活をしていたサッカー部の私が「お前の学年はどうなってるねん」と、やった本人よりも怒られたという話もある。

非常に怖かったが、教諭のご指導の数々が現在の私を形作っていると思うし、感謝の気持ちしかない。


大学生になり、自分の責任でできることが以前より増えて来たが、そんな今だからこそ、これまで支えてくれた全ての方々に感謝しなくてはならないし、今も多方面からの支えがあることを忘れてはいけないと思う。

人間的成長を目標に掲げて活動している阪大サッカー部には、非常に素晴らしい人間性をお持ちの先輩がたくさんいる。同期もなかなか良い奴が多い。現在の私を取り巻く環境はこれまでの自分の人生を振り返ってみても、最高に良い。同時に、自分の甘さを痛感する日々でもある。
サッカーの技術も、人間性も向上させ、1日でも早く他の部員に追いつきたい。そして、感謝の心を忘れず、有意義な大学生活を送りたい。


他の1年生がまとまった文章に仕上げている中、長々と書いてしまった。有益で面白い部員ブログにすることができなかったかもしれないが、自分の考えをまとめる良い機会になった。
そして、20歳まであと1年を切った今、改めて教諭の教えの数々が胸に刺さった。

かなり話が逸れてしまうが、浪人を経て現在20歳の同期を見て、ハタチって思ってたよりも大したことないな、と感じてしまう事がある。

原付を受け取りに、バイク屋へ自転車で行った20歳の某上田(背番号37)の話があるのだが、残念なことに、現在私は彼の連絡先を知らず、このブログに書く許可を得られていないので、少しぼかした表現をさせていただこうと思う。

ガバガバな20歳にならないよう、10代最後のこの1年間はしっかりと成長したい。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。今後ともご指導、ご支援のほどよろしくお願い致します。 藤元知史でした。

2017年10月21日土曜日

古事記 1年 守武慎太郎

  こんにちは。1年のキャベツ太郎です。間違えました。レタス花子です。間違えました。守武 慎太郎です。今回部員ブログを書かせていただくにあたり、自分のこれまでを振り返ろうと思います。お付き合いいただければ幸いです。

  僕は小学校4年の時にサッカーを始めた。サッカーを始めるいちばんの動機は体力をつけて校内のマラソン大会で勝ちたいと思ったことで、その時サッカーが好きだったかというと、正直そうではなかった。
  初めはサイドバックでプレーしていたが、ボールが来ても適当に蹴るか、ただひたすらまっすぐ進むイノシシドリブルをするしか選択肢がなかった。一度フェイントで相手をかわそうと思い立ったことがあるが、失敗して膝を痛めた。痛かった。フィールドをしている頃はずっとこんな感じだったので一向に上手くならず、サッカーをするのも嫌になっていたのをよく覚えている。
  転機が訪れたのはサッカーを始めて半年たった頃。その頃僕は体力をつけるという目的なぞすっかり忘れてゴールキーパーをすることに決めた。キーパーになって、シュートを止める喜びを知ると同時に、サッカーは楽しいと思うようになった。

  今思えば、僕はサッカーが好きだったのではなく、単純にゴールキーパーが、シュートを止めるのが好きなだけだったのだと思う。実際、高校生になって自分の思うようにシュートを止められなくなり、サッカーの楽しさがわからなるという時期があった。
    僕の意識が再び変わったのは高2の秋だった。僕はこの頃、ようやく「サッカーはチームスポーツ」だということを実感できるようになった。当たり前のことだが、試合に出る11人の他に、ベンチに座る者、応援する者、全て合わせて1つの「チーム」である。その全員が力を合わせ勝ったときに得られる喜びは、自分がシュートを止めた時のそれよりもはるかに大きく、気持ちのいいものだった。
  3年生になり自分が試合に出るようになってから、その実感は一層強くなった。誰かのゴールをみんなで喜んだり、チームの勝利をみんなで祝ったりする。これもサッカーの1つの面白さだと思った。遅すぎるが、僕は今まで知らなかったサッカーの面白さにやっと気づくことができた。そのような経験をしているうちに、またサッカーが好きだと思えるようになった。

 そんなこんなで大学生になった今、僕はサッカーを続けてる。それはサッカーが好きだから、サッカーが楽しいからである。今、このチームでみんなと一緒にサッカーができて本当に嬉しい。僕はこのチームに少しでも貢献できるよう頑張りたいと思う。
  未熟な僕には、まだまだできないことや、サッカーについて知らないことが多くある。それができたり、新しく何かを学んだ時、まだ僕には見えていないサッカーの面白さが見えるかもしれないと思うと、本当に楽しみだ。だから僕は、もっと上手くなりたい。上手くなって、サッカーのことをもっと好きになりたい。と思う。
  悲しいことに、サッカーにこれだけの時間を費やせるのはあと3年ほどしかない。ぼーっとしていたら、あれよあれよという間に時間が過ぎてしまうので、残り少ない時間、精一杯サッカーに打ち込みたい。
拙い文章でしたが、最後までお読みいただきありがとうございます。今後とも大阪大学体育会サッカー部へのご声援よろしくお願いいたします。レタス花子でした。

2017年10月16日月曜日

僕らのO 1年 金澤優塁

小学校ではクラブチームに入り全国大会を経験した。中学にあがり部活ではなくクラブチームを選び、また全国の舞台を味わった。高校も、それほど強くはなかったけれど、それなりにサッカーをやっていた。なんて運がいいのだろう。生まれた場所であり、周りの仲間であり、いろいろなものに恵まれた。ああ、俺はこのままサッカーをずっとやっていくんだな、と何度も思った。まるで言い聞かせるように。だからなのだろうか大学でもサッカーをすることは自分にとって当然だった。
志望校が阪大でいいのか迷っているとき、友達からの情報に歓喜した。
"Oさんがいる"
迷うことなんて何もなかった、はじめからそこへいくと決まっていたかのようだ。そして会えた。同じ時間同じ空間にいることに衝撃を感じた。少し大人びた落ち着きをまとって、発する言葉は重く強く響いてくる。プレーだってそうだ。ずば抜けた爆発力をもち、攻守にわたって存在を誇示している。いつだってそうだった。見る人に希望と情熱を与え、吠える姿は男の中の男。何事にもおそれず前向きに構え、僕らを導いてくれる。かっこいいだけでは収まらない人だった。高校時代背中をずっと見てきたまさにその人が今ここにいる。だとしたらもう僕はただここでサッカーをしているだけでは満足できない。この人の背中を絶対に捉えてみせる。
またサッカーのできる幸せに感謝。


2017年10月13日金曜日

ラストチャンス 1年 丸山一樹

1年の浪人を経て大阪大学に入学することになったが、その間に数えきれないほど引退試合の失点シーンとシュートを外したシーンがふと頭に浮かんできた。大好きなサッカーに関しては引退試合しか考えることがなかった。試合後のミーティングで選手権直前にメンバーから落選した同期が涙を流しながら後輩に思いを伝えている姿も思い出された。キャプテンを務めていたためチームを勝たせることができなかったことに責任を感じ、自分以外の人間がキャプテンなら違う結果だったのだろうかと思うこともあった。悔しさをここで言い表すことは難しい。
ただこれだけ悔しいと思えるのは、全力で練習に取り組み、メンバーに入れずとも全力で応援してくれていた仲間のおかげだ。試合に出れない3年生が多かったことはもあり、余計にそう思う。初めて高校で仲間に応援された時は身震いしそうだった。学校の名前を背負って試合に出るとはそういうことだと思うし、高校サッカーのそこはものすごく魅力だ。ただ終わってみると先程のように悔しさが多く残っており、そんな中で大学の体育会サッカー部は最後に1度だけ残されたチャンスである。全力で取り組む程悔いなく終わることは出来なくなるのかもしれないが、応援する時もされる時も全力で取り組み、熱い経験をここで皆としたい。

2017年10月10日火曜日

他人志向型の僕と。。 1年 岩尾凌吾

こんにちは。大阪府立豊中高校出身、経済学部一年の岩尾です。部員ブログも2回生3回生4回生とまわってついに一回生の番が来てしまいました。小さい頃から国語が苦手だった僕は、後輩も見ているであろうこの部員ブログで自分の文章能力の低さを露呈してしまうことになりますが、最後まで読んでいただけると幸いです。

突然ですが、質問です。皆さんはこれまでの人生の選択を自分自身で行ってきたでしょうか?ほとんどの人が「当たり前だ」と思ったかもしれもせん。確かに最終的に判断を下すのは自分自身です。しかしここで言う「選択を行う」とは、「自分で積極的にやりたいと思ったことを行動に移す」という意味です。この観点から言えば、私の答えは"No"です。

思い返してみれば、小さい頃にやっていたそろばん、水泳、黒帯を取った空手、2歳から14年間続けたピアノ。このどれもが、母親に勧められて始めたものでした。それだけではありません。なぜ豊中高校を志望したかと言えば、豊中高校が母校であった母に小さい頃から「あの高校はすごくいいところだよ」と聞かされていたからだし、阪大だって家から近く、かつ世間一般に「いい大学」とされるから目指しました。
ここまで読むと、「コイツ、ただのマザコンじゃねえか」と思った方もいるでしょうが、決してそういうわけではありません。他人指向型で優柔不断な僕は、人生における選択を周りの環境に左右されながら行ってきたのです。ただ1つを除いては。。。


それがサッカーでした。僕は小学4年の終わりに初めて両親に懇願し、サッカーを始めました。はじめは自分よりずっと前からサッカーを始めている仲間の中で、練習についていくだけでも大変でした。

サッカー人生で初めての試合。自分にPKのチャンスが巡ってきました。しかしながら、"PK"という言葉さえ知らなかった僕は一歳年下の"先輩"に方法を教えてもらい、トゥーキックで思いっきり振り抜きました。自分の頭の中ではゴール左隅に強烈に突き刺さるスーパーゴールを思い浮かべていましたが、結果はノーゴール。ゴール左に1つも2つも外れる、いわゆる"ホームラン"でした。

それからというもの、小学6年生の時には始めて2年も経っておらず、リフティングだって100回もままならなかった僕は、一丁前にヴィッセル神戸のセレクションを受けに行ったり(もちろん一次で落ちましたが)、中学に上がる時には地元ではそこそこ強いクラブチームに入ったりしました。

なぜそんなことをしたかと言えば、とにかくサッカーが上手くなりたかったのです。中学のクラブチームでは、もちろん万年Bチームだったし、高校に上がっても最後まで公式戦に出ることはありませんでした。

そんなこんなで今年でサッカーを始めて9年。僕はサークルではなく、ユース出身や国体出身もいるこの阪大サッカー部をあえて選びました。
よく、友達に聞かれます。なぜ、部活に入ったのか、と。僕はその時、「阪大で、しかも部活入ってたら、就職楽勝やん」などと本末転倒なことを答えることが多いですが、本当は違います。本当はこれまでと同じように、あえて厳しい環境に身を置くことでサッカーが上手くなりたかったからです。

今、僕はサッカー部で下手の部類に入ります。試合にも思うように出れていません(もちろんB戦には出させてもらっています)。これまで僕は上手くなるためだけでなく、自分より上手かったチームメイトに勝って、試合に出るためにサッカーを続けてきたにもかかわらず、今の自分はまだそれを成し遂げられていません。しかしいつの日か阪大サッカー部スタメンの座を勝ち取って、これまでサッカーを続けさせてくれた両親を試合に招待できるようになれればと思っています。

P.S.
先日、某予備校のH先生がある番組で、「小さい頃にそろばん、水泳、ピアノ、サッカーをしていると、将来の脳の発育が良くなる。」とおっしゃっているのを聞きました。驚くことにその全てを僕は小さい頃に経験しました。もしかするとこうして僕が阪大に入学できたのも、そうした習い事を勧めてくれた両親のおかげかもしれません。これを聞くと母親は、「私のおかげやん!」などと言い張るでしょうが、僕にもプライドがあるので誰のおかげかは濁しておくことにします笑

拙い文章でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。これからも阪大サッカー部へのご声援をよろしくお願い致します。

2017年10月5日木曜日

憧れだった場所 1年 廣田利一

こんにちは。1回生の廣田利一です。

1回生の4月によくある質問。「サークルとか部活どうするの?」
ただし、ここでゆう部活は、体育会ではなく医学部の部活のことである。
この質問を聞く度に僕は、体育会の部活であることを主張しつつこう答えた。「体育会のサッカー部に入る為に、阪大に入ったねん。医学部サッカー部には絶対に入らへん。」と。
(医学部サッカー部さんを否定してるわけではありません。)
言葉に力が入ってしまうくらい、顔に似合わずサッカーに対する思いは強いし、本当に阪大のサッカー部に入りたいから浪人してまで阪大を受けた。憧れの場所に入る為に。

ここで、なんでそこまでして阪大の体育会サッカー部に入りたいのかと思う人もいるかもしれない。理由としては大きく2つあり、
阪大が自主性で頑張っているところに魅力を感じたし、結果も出ているからとゆうことと、かつての小中高のチームメイトが関西で大学サッカーをしているのでそのフィールドに立つ為である。
特に、阪大に入って高校時代に活躍して大体大に入った友達と試合をして勝ちたいと浪人時代からずっと思っていて、
大口叩いている割に実力が伴っていないのは自覚しているけど、阪大でなら可能性はあると思っているから入った。
実際にこの憧れだった場所に入ることができ、本当に嬉しかったし、いろんなところで成長している自分がいる。
小中高と自分の学年の人数が少なくてろくにスタメン争いをしたことがない自分が、大学に入って1回生が20人、上回生を合わせると60人弱いる中で競い合っているので、成長しないわけがない。
でも、先輩方を見ると、自分はまだまだ甘いなと思うし、自分に厳しくなってもっとうまくなりたいと思う。

1回生なので、来年入ろうかなと思っている人に対するメッセージに説得力はあまりないかなと思うけど、実際に入ってみてわかったことがある。
それは、自分が成長できる環境が整っているとゆう点である。
まずはうまい先輩ばかりいること。わからないことは教えてくれるし、見習うところがものすごく多い。また、人として尊敬できる先輩ばかりいる。
次に、芝のグラウンド。今までは全て土でやってきたので最初来た時は感動した。本当にやりやすい。この一言に尽きるかなと思う。
これはOBの方々のおかげであるので本当に感謝しかありません。
他にも色々ありますが、とにかく阪大のサッカー部に入れて本当に良かったなと思う。

最後に、1回生なのでまだ3年以上あるとは言っても、3年なんてあっとゆうまに過ぎてしまうと思うので、今まで育ててくれた両親に感謝して、また、環境を整えてくださった先輩方たちに感謝して、今では”憧れだった場所”に変わったこの阪大で成長していきたいと思います。

2017年9月26日火曜日

シンプル 2年 マネージャー 石塚朱莉

「お前ってほんと、バカだよなぁ」
 この言葉を友達にもう何度言われたか、正直なところ数えていない。別に否定する気にもならなかった、その通りだと思うから。
 他人がわたしのことを説明する場面に出くわしたことがある。ガンバ大阪の応援ために札幌からわざわざ阪大に来た、とんでもない奴と紹介していた。説明になにも間違いはない。

何でこうなったのかなぁと、昔友達に聞いた。友達が言うには、わたしの考えることはものすごく単純で、そのくせ無駄に行動力があるから、結果とんでもなくバカなのではないかということだった。その時、不思議なくらいすとんと府に落ちたのを覚えている。

そんなわたしが、最近よく聞かれることがある。
「なんで体育会のマネージャーなんか選んだの」
サークルでもよかったじゃん。なんなら、自分が動くほうが向いてるんじゃないの。

 週に5回の部活。忙しそうにする姿を見れば見るほど、聞きたくなるのかもしれない。
だけどいつもわたしの答えは同じで、そしていつも納得されない。「サッカーが好きだからかな」

自分は他人と考えることが少し違っていて、それでいてバカなんだと知ったとき、ひとつ決めたことがある。それは、自分に素直でいようということ。わたしの行動原理はとても単純で、好きなものはとことん追っていく。それで将来するかもしれない後悔は、それはそれで別にいいかと思った。
 わたしがサッカー部でマネージャーをしていることに、なにか共感を呼ぶような深い理由は本当になくて。サッカーが好き、単純な動機がそこにあるだけ。でも、この「好き」は、わたしのなかで特別強い動機。

皆がすごく考えて生きているなら、ひとりくらい突拍子もないバカがいたっていいと思う。

2017年9月21日木曜日

チェリー 2年 スタッフ 廣瀬友樹


 皆さんは、”チェリー”というフレーズを聞くとどんなことを思い浮かべるだろうか。スピッツの歌、YUIの歌、果物のさくらんぼ、性経験のない・・、人それぞれ思い浮かぶものは違うと思うが僕はチェリーと聞くと思い浮かべるのは母親である。
 僕の母親は”ちえり”さんというのだが、それをもじってかSNS等での登録名が”チェリー”なのである。僕は今回母親チェリーについて書きたいと思う。
 チェリーはど天然だ。以前、日本vsサウジアラビアの試合を見ていると、「あんたどっちを応援しとるの」と聞いてきたことがある。僕はふざけて「サウジ」と答えた。そしたらチェリーの答えは「やっぱり。」、僕は自分の血統を疑った。
 サッカーについても全くの素人だ。でも僕が洗脳した結果、”マンチェスター・ユナイテッド"、”ルーニー”、そして”ベン・メイブリー”という3つのフレーズは覚えたようだ。
 そんなチェリーに対して僕はずっと後悔していることがある。僕は小中と素行が悪く、どれだけ悪かったかといえば警察にやっかいになる程荒れていた。友達に迷惑をかけ、チェリーと家まで謝りに行くこともあった。そうした中で、一度だけチェリーを泣かせてしまったことがある。僕が生きてきた中で唯一見た母親の涙だった。その時の出来事は今も忘れられないし、これからも忘れることはないと思う。本当に本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだったし、二度と迷惑をかけたくないと思った。
 特別裕福ではない家族だったこともあり、当時の僕はなるべくお金をかけさせないようにと勉学面では国公立の学校に進学し、大学にもストレートで入った。指定校推薦で慶応大学に入れそうだったが、僕が慶応ボーイというあまりに重荷なレッテルを背負う容姿と気概がなかったし、とにかくお金がかかると思った。はたまたチェリーはどこかで聞いたことがある”慶応”というフレーズに心奪われ、まるで餌を目の前にしながらもご主人様に『待て』と言われている犬のような眼差しでジャムおじさんのような女教師を見つめていた。僕は今でも進路選択は阪大で良かったと思っている。 
 チェリーは常に”誰かの為に”行動する人で、目の不自由な方にボランティアで朗読をしたり、同じ学区に住む外国人の方をサポートしたりとその行動一つ一つが自分にはできないことだと思い本当にすごいと感じる。地位や学歴ではなく、行動で人としてすべきことを教えてくれる親の元に生まれ本当に良かったと思う。僕もチェリーを見習い、サッカー部で任された役割、それがどんなことであっても全力で取り組みたいと思う。
 サッカーではサポーターは”12人目のプレーヤー”と言われるくらい重要なポジションだ。僕にとって一番のサポーターは間違いなくチェリーだし今まで迷惑かけてきた分をこれからの人生で少しづつ返していきたいと思う。そしてチェリーがフォローしている阪大サッカー部のTwitterアカウントで、2部A昇格というtweetを流せたらいいなと思う。
 最後になるが今年の母の日、僕はサッカー部のことで頭がいっぱいでプレゼントもメッセージも送れなかった。浪人中の妹でさえ、「いつもありがとう」とメッセージを送ったそうだが、僕のLINEの履歴を見ると「お金が足りません、ご支援お願いします。」の一文。何も変わってないなーと自分自身を笑ってしまった。
 チェリー、Happy Mother’s Day.


2017年8月10日木曜日

大好きなサッカー 2年 大谷一樹

人間科学部2回生の大谷一樹(おおやかずき)です。
よく「お前の学部意味わからんやろ」と言われます。
ナンセンスなセンテンスすぎて鼻で笑ってます。
法律を作るのは、経済を回すのは、ヒンディー語を話すのは、誰ですか、人間ですよね?それを科学的に研究する。そういった考えもあると思うんです。具体的に何を学ぶか?そんなことは未だに僕も分かってないです。

本題に入ります。このような場面でしか自分の話をできないので聞いてください。
僕がサッカーを始めた理由。
1つめは、幼少期坊主頭しか許されていなかった大谷少年が、2002年W杯のブラジル代表FWロナウドの髪型に憧れ、真似をしたこと(google画像検索してください#ロナウド#出っ歯#怪物 {当時の僕の写真ほしい人はLINEの友達になってください#時々#アイコン})
二つ目は3つ上の兄の影響。小さい頃から大好きだった兄がサッカーをするというので大谷少年も始めることにした。始めた理由などは曖昧でキリキリマイなんでどうでもよいのだが,サッカーを続ける理由について聞いてください。

それは二つある。サッカーが本当に大好きで、サッカー中は、サッカーに夢中になりネガティブなことは一切忘れることができるから。もえのちゃん☆に失恋して勉強も手につかず、父の軽快かつ繊細な下ネタについていけなかった時ですら、サッカー中は楽しくて仕方なくて、サッカーの事だけを考えられ、とてもスッキリした。サッカーが本当に好きである。サッカーをする人なら誰でもわかると思う。
二つ目は兄のためである。
大好きだった兄は僕が高校生の時に交通事故で他界した。それでも僕は今も三兄弟と言い続けているのには理由がある。
兄が突然いなくなったとき、日常が当たり前ではないことを本当に本当に痛感させられた。こんなにあっさり人生って終わるんだなって思った。サッカーをすることが兄のためになるとかではない。そうではなくて、当たり前ではない日常に感謝し、後悔なく日々を生きなければならないと思わされた。明日が来ることが奇跡なら、今日という日に自分の大好きなことを全力でやらなければいけないと思った。僕にとってそれはサッカーしかなかった。だから僕は、プロを目指している訳ではないのに全力でサッカーを続ける。毎日寝る前、今日自分どれだけがんばれたかな、と思い返すと何も頑張れていない自分に気づき腹が立つ。試合に出させてもらっているにも関わらず最後までやり切る事ができない自分に嫌気がさし申し訳なくなる。

このブログを読んでいる若者の皆さんも時々でいいので、その日の自分が本気でやれた事を振り返ってみてください。もっともっともっと今日できることがある、そう僕は思います。そして何歳になっても何かに全力で取り組んでほしいです。

最後になりましたが、まだまだ頑張るチャンスをくれる阪大サッカー部と、サッカー部の活動を理解し応援してくださるOBの皆さま、そして小学校から大学までにサッカーを通して出会えた仲間、大学になってもサッカーを応援してくれる僕の両親に感謝します。そしてこれからも、愉快な阪大サッカー部と、こんな根が真面目な88番の応援をどうか宜しくお願いします。

これはノンフィクション。
起こせアクション。yeah

2017年8月8日火曜日

阪大に求めるもの 3年 木村京太郎



サッカーは本気で頑張っている。それだけは確実に言える。

こんにちは、木村です。

今現在、大阪大学体育会サッカー部で活動していて思うことは環境などの充実である。人工芝のグランドで練習することができ、暗くなればナイターがつき夜でも練習することができる。ミーティングルームも借りることができそこでチームの状況をよくするために話し合いだってできる。さらに練習終わりにシャワーまで浴びれるのだ。そんな環境におかれて頑張れないやつなどいない。
ただその環境があることが当たり前だと思ってはいけない。歴代のサッカー部の部員が今まで築いてきた信用があるからグランドを貸してくれるのであり、みんな応援してくれるのだ。満足のいく練習ができたり練習試合ができたり、リーグ戦に参加できたりしてるのも四回生の方々や主務や副務などがいてくれてやっと成り立っているのである。

そんな中で本当にサッカーだけを頑張っていていいのか。一回生や二回生のあいだはただがむしゃらに自分の成長のためだけに頑張ってきた。たしかにそれは下級生がやるべきことである。三回生になった今、サッカーを頑張ることは当たり前だ。それに加え練習を盛り上げるために声を出す、レポートを期日までに出す、下級生がたるんでいるとしっかり注意するなど考えれば考えるだけやるべきことは見えてくる。自分らが注意してもらったように後輩を注意できているか。最近強く感じることである。

自分がまだ一回生のときに上回生の皆さんにはたくさん注意していただいた。当時はそんな細かいことええやん、なんで同回生のミスで俺まで怒られなあかんの、などたくさん思うことがあり素直に受け入れられないこともあった。社会人になるとそんな細かいことなど教えてくれることはないので、今はどれだけ後輩思いな先輩だったんだと思います。

またサッカー以外の面でも意識してやるべきことはある。すべて当たり前のことだが、人に挨拶する、親や周りの人への感謝を忘れない、早めの行動を心がける、赤信号は渡らない、授業中に寝ない、家に帰っても予習復習をする、積極的な授業への参加、テスト勉強ははやめのうちから、など数え切れないほどある。

そう、大学サッカー三年目にして強く思うのは単位がほしい。それだけである。

2017年8月1日火曜日

ぼくはペレ 3年 松田出帆

高校最後の夏の大会、結果は一回戦負け。しかしそのピッチの上に自分はいなかった。悔しくて諦めきれず、部員の多くが受験で部活を引退する中、自分は部活を続けることを選んだ。1度目の未練である。しかし冬の選手権、結果は2回戦負け。またしても悔いの残る結果となってしまった。と、いうことで今現在、僕は2度目の未練の精算をするべく大阪大学体育会サッカー部に入部している。
入部して2年が経つが、後悔は全くしていない。それどころか入部して得られたことの方がはるかに多い。人によって様々なサッカーの考え方があること、名古屋の人は面白くないこと、かかとが痒くてサッカーができない人がいること等、様々なことを知ることができた。なかでも、人との付き合い方を学べることが体育会に入る意義の最たるものであると僕は思う。
 以前、練習で振り分けられたカテゴリーに納得がいかず、あからさまに機嫌を悪くしたまま練習をした日があった。次の練習終わりにベイル先輩に呼ばれ、すまなかったと言われた。その時になって初めて、自分がいかにチンケな行為をしたか気づいた。自分に実力がないために受けた評価を他人のせいにし、挙句先輩にまで気を使わせてしまい、申し訳なさと同時に、謝罪を受けるまでそのことに気づけなかった自分に心底腹が立った。そのことがなければ、自分は今でも他人に迷惑をかけるということに気づけずにいただろう。体育会に入ったおかげで自分は少し人間的成長をすることができた。
 ちなみに、今年の春合宿の前日に練習中にベイル先輩にベイルされ、足の指を骨折し、楽しい楽しい春合宿に参加できないという事態が発生したが、そのことに関して僕はベイル先輩を恨んでいるということは全くなく、今でも尊敬している。
 しかし、部活もいいことばかりではない。これは僕に限ったことなのだが、大学に入って、サッカーをやる上で大きな障害が僕の前に立ちはだかった。怪我である。右足首靭帯損傷、左足首靭帯損傷、右足指骨折、右肩脱臼、左肩脱臼、怪我という怪我を四肢にひっさげ、僕はサッカーをしている。そして気づけばサッカーしか出来ない体になってしまっていた。脱臼によりボールを手で受けることができず、しかも両肩やってしまっているので某野球漫画のように左投げに転向してジャイロボールを投げることもできない。僕にはサッカーしかないのだ。なので、僕は自分のことをサッカーの申し子だと思っている。ペレと一緒だ。ただ理由が消去法なためネガティヴバージョンなだけである。そんな僕のあと少しの大学サッカー生活を、少しでも多くの方に暖かく見守っていただけたら、幸甚の至りである。
 
 長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。今後とも大阪大学体育会サッカー部をどうかよろしくお願いします。

2017年7月25日火曜日

理想の姿 2年 野本健斗

サッカーをする上で大切なことはなんだろう。サッカーだけに限らない。日常で物事を経験していく中で大切にすべきことはなんだろう。情報、戦略、体力…?
それらは目的を成し遂げる上で重要な要素である。しかし、僕はそれ以前に「一生懸命」になることが大切なのではないかと考えている。「いや、それは当たり前のことでその上で…」と感じるかもしれない。しかし一生懸命何かに打ち込むということは容易なことではない。「しんどい時こそ人の本質があらわれる」という言葉を聞いたことがあるだろうか。これは誰にでも当てはまる言葉であると同時に僕自身心に留めておかなければならない言葉である。
サッカーにおいて、「しんどい時こそパスを正確に通してやる」「しんどい時こそ1対1で勝ってやる」「しんどい時こそ走り抜いてやる」といった覚悟を最後の最後まで持ち続け、自分の全力を出しきる。そしてやり遂げられなかった時は思いきり悔しがり、やり遂げられた時には思いきり喜ぶことが一生懸命になってこそ得られるものではないかと僕は考えている。今の自分は「一生懸命」戦うことができているかといえばそうではない。しんどい時頑張りきれず後悔することが何度もある。チームメイトに迷惑をかけてしまうことも多々ある。そんな今の自分を受け入れ、自分に必要な課題を克服するために目の前のことに全力を注ぎ、引退までのサッカー人生を歩んでいきたい。そしてお前の誇りは何かと聞かれた時に「一生懸命になれる自分がいること」と胸を張って答えられる自分を目指し、日々練習に励んでいきたい。

小ネタ
僕の現在の体重は70kg程度。大学入学当初の体重は85kg。BMIは30以上。そのせいなのかは分かりませんが相撲部の方から熱い勧誘を受けました。頑張れ高安。

ブログをお読みいただきありがとうございます。


2017年7月22日土曜日

よくある質問 3年 津田厚

皆さん、こんにちは。私は大阪大学サッカー部の津田厚と申します。先程、再履修していたドイツ語のテストが無事終わり、安堵の気持ちでこの部員ブログを書かせていただいております。このドイツ語のテストが終わって家に帰ると、携帯に1通のメールが届いていました。開いて読んでみると、それは同じドイツ語の授業を受けていた4回生からのメールで、「授業に全く出席しておらずテストの出来も壊滅的だった。この授業の単位が取得できないと卒業出来ないので救済措置が欲しい」という、シビアな文面でした。先生に送るはずだったのでしょうが、何故か私に届いていました。皆さんも彼のようにならない為にも勉学にはきっちり取り組みましょう。




さて、今回の私の部員ブログのタイトルは「よくある質問」です。サッカー部の皆さんにとっては耳にタコが出来る程聞いたことがあるであろうあの質問です。それは、、、、、、、、、、


「なんで部活してるん?」   です。


皆さんの「あぁー」という声が聞こえてきます。私自身、オフ期間中に帰省し地元の友人に部活でサッカーをしていると伝えると必ずこの質問を受けました。その質問にたいして今までは、高校の先輩がいたから、人工芝のグランドでサッカーできるから、というかなり単純な返答をしていました。ただこれから先、企業のお偉いさん方にこの質問をされた時、同じように答えるとすごくマズいことになるので、この部員ブログを機に自分が何故部活でサッカーをすることにしたのかを考えました。


私は今まで公式戦に2試合しか出たことがありません。高校で1試合、大学で1試合です。高校の時の公式戦はグループリーグ突破が決まった後の消化試合で、メンバーに入れなかった最上級生が出るといった具合で、実力で勝ち取ったものではありませんでした。そして、大学生になり、6月に行われた関西選手権でやっと人生で2試合目の公式戦に出ることができましたが、この時も自分が出場できたのはいつもスタメンで出ている選手が怪我で出れなくなってしまったからで、またも実力で勝ち取ったものではありませんでした。



この出来事は自分でも曖昧な返答しかしてこなかった「なんで部活してるん?」の質問に明確な答えを与えてくれました。それは「チームメイトの分まで戦うという経験がしたかったから」です。自分が試合に出ることで、他のチームメイトはその出場機会を奪われます。私は今までずっと奪われる側だったので、そんな事を考えたこともなかったしつい最近までは、一生経験できないだろうなと思っていました。しかし公式戦に出てピッチから、「いつも自分がいた」応援席で一生懸命応援してくれているチームメイトを見て、「みんなの為にも勝ちたいな」という気持ちが自然と湧いてきました。生まれて初めて抱いた感情だったので変な感じでしたが、冷静に思い返せばその時は「絶対に勝ちたい」、「みんなの分まで頑張らないと」と本当に思っていました。こういう経験がプレイヤーとして、そして人間としての質を高めていくのだと感じましたし、その気持ちをみんなが共有できればどんなに強い相手にでも勝つことが出来るだろうなと思いました。

前期リーグは思うような結果は得られませんでしたが、夏休みにたくさん練習して(今年の夏の練習はエグイと聞きました。)、後期リーグ全勝してみんなでおいしいビールを飲んで二日酔いでウンウン唸りたいです。


拙い文章でしたが、読んでくださりありがとうございました。

今後とも大阪大学サッカー部をよろしくお願い致します。

2017年7月18日火曜日

人生をふり返る 2年 井上滉大

こんにちは。
阪大のドグラスコスタこと井上滉大です。
僕が阪大サッカー部、いや大阪大学に入って痛感したことは自分の自主性の無さである。
僕がサッカーを始めたのは小学生のときできっかけはあまり覚えていないが、兄がサッカーをしていたのでとりあえずやってみようみたいな感じだ。
そして小学校高学年になると、親に中学受験を勧められサッカーを辞めて受験に専念し中高一貫の進学校に入学した。大学受験の時期になると親に大阪大学に行くことを勧められ、学校の先生の言う通りに勉強してたら大阪大学に入学できた。
今考えてみると僕は何をするにしても自分で決めていなくて、兄がやっていたからとか親に言われたからなど、人に敷かれたレールをただ進んできた、とてもつまらない人間だった。
大学に入っても、相変わらず僕は人に頼りっぱなしで、部活では先輩についていってばかり、勉強の方ではメルティーキッスを塚本くんにあげればだいたいの課題はやってくれる。
阪大サッカー部では、指導者がいなく学生主体で、幹部の方々を中心に試合のメンバーや練習メニューを決めてくれるし、試合が終わればビデオを編集しミーティングをしてプレーについて各々の意見をぶつけ合う。自主性の塊である。
だから、僕からしたら阪大サッカー部の人たちは尊敬できて頼れるおもしろい人ばかりで、自分もそうゆう人間になりたいと思うし、それが自分の「人間的成長」だと思う。
そしてチームの勝利に少しでも貢献できる人間になって、二年半後同期のみんなと笑って引退できるように全力で頑張っていきたいと思う。

2017年7月14日金曜日

準備と結果 3年 花田尚輝

こんにちは三回の花田尚輝です。この先様々な人にこの文を読まれると思うととても緊張します。ゲボ吐きそうです。
本題に入ります。私がいまサッカーをする上で大切にしていることは「準備と結果」です。
部内で私には「結果の男」というあだ名があり、一見カッコいいのですがその実八割くらいはいじりで占められています。その由来は1年半前に初めてAチームで試合に出た際に2試合で5点を取ったことで、その時某T先輩(日本NO.1の車メーカーの内定を持つ阪大サッカー部の黒幕)に名付けられました。以降某TOYOTA先輩や最近盲腸になってちょっぴり痩せた某Y(やらかし)先輩、サッカー部1の男前である某越智などによる熱心な普及活動のおかげ(せい)でいまや後輩にも言われる事があるほど言われるようになってしまいました。
「結果の男」というあだ名はどんな時でもなんやかんや点を取るという意味なのですが、「まぐれ当たり」や「ストライカーは89分休憩して1分で点を取る存在」、「結果だけの男」などと揶揄されることも多々あります、しかし私は試合中に出る「結果」はすべて「準備」のおかげだと思っています。俗に言うゴールに押し込むだけのごっつぁんゴールはその場所にいたからこそ取れる点なのであって、決して運がいいからなどという曖昧な理由ではありません。私が思うに、真のストライカーとは89分様々な準備をし続け、しかるべき1分もしくは一瞬に全精力をだしてゴールをもぎ取る存在であると考えています。しかし私はその境地にはまったく達せていないですし、個人的に部内で試合中最も「準備」ができているプレーの読みが半端じゃない某O先輩(影の権力者、過去に彼女にラインで・・・以下自主規制)のプレーを参考にして自分を高めていきたいと思っています。
現状私は前期のリーグ戦でベンチ入りすることはあっても出場することができず、とても悔しい日々を過ごしていました。私はこの状況を’電車待ち‘の状態だと思っています。ただしその電車はJRの時刻表のようにいつ来るのか正確にわかるわけではありません。
だからこそしっかりと切符を買い、目的地を調べて、いつ電車がきても飛び乗れる、つまりチャンスをつかめるように努力し続けることが大切であると日々考えてトレーニングに励んでいます。
このような考えのもと、ピッチ内外問わず日々「準備」し、たとえどんな時でも(紅白戦や練習試合であっても)「結果」を出し続け、いつかは公式戦でゴールを決めてチームに貢献したいと思っています。
なんか恥ずかしくなってきたんでそろそろ筆をおくことにします。
いじらせて頂いた先輩方には非常に申し訳なく思っています。あと4ヶ月しかないと思うととても悲しくなりこのような愚行に走ってしまいました。またメンバーを決める幹部の皆様、とってもとっても尊敬しています。大好きです。てへぺろ。
最後になりますがサッカー部関係者の方々、OBの方々、いつも応援やご支援して下さりありがとうございます。自分がいま全力でサッカーできるのも両親、同期のチームメイト、先輩や後輩、OBなどの様々な方々のお陰であることを忘れずに残り一年半頑張りたいです。

2017年7月12日水曜日

僕のサッカー人生を語る 2年 田辺翔太

僕のセンター試験の国語の点数は、浪人時代のセンター本番以外で6割を超えたことはほとんどない。また、僕より前にたくさんの部員がブログを書いているが、みんな内容もしっかりしているし面白い。そんな中で書くのは気が引けるが、書くしかない。自分らしく真面目に一生懸命書いたで最後まで読んでいただけるとありがたいです。
僕がサッカーを始めたのは年長の時なので、今年で15年になる。15年前の記憶などないに等しい。唯一あるとすれば、小2の時にサッカーをやめて野球をするか迷い、結局デッドボールが怖くてサッカーを続けることを選んだことくらい。また、センターバックをしていた。阪大でも同期で一緒にサッカーをしている幼馴染の床並君がボランチで、床並君が取ったボールを僕が蹴って、床並君が取って、僕が蹴っての繰り返しだった。副キャプテンでよく怒られていたことも覚えている。結構記憶あるやんと思ったかもしれない。確かに結構ある。それはそうである。僕のサッカー人生の始まりをを簡単には忘れたくない。それぐらい強い想いを持っていた。
次は中学生。僕はガンバでサッカーを頑張っていた。今これを読んでいる人は、「え、ガンバ?!」とか「田辺すげー!」となったかもしれない。とても嬉しい。しかし、そのガンバはみんながよく知っているガンバ大阪ではなくガンバ堺という、映画館の横にある小さなグラウンドで活動しているチームである。練習中にポップコーンを食べに行ってもばれないだろう。そんなチームでもガンバというのが同じだけで、一瞬でも自分のことをすごいと思わせられるだけでも入った甲斐があったのかもしれない。でも、実際は食べに行く人など1人もいず、みんな真剣にサッカーをしていた。そして、上手い人は本当に上手く、ついていくのがやっとである。そのような人と一緒にやることで自分も少しはレベルアップできたのかなと思う。また、練習は、個人的に好きな基礎練など、個人の技術を上げる練習が多かった。それのおかげである程度のボール扱いができるようになったのかなと思う。本当にガンバ堺に入ってよかったと思っている。
次は高校生。中学生の所に書いてなかったが、中学3年の時、ほとんどサッカーをしていなかった。勉強しかしていなかったのである。しかし、それによって掴んだ合格はとても嬉しかった。そのままなんの迷いもなしに張り切ったままサッカー部に入部した。しかし、いきなり挫折を味わった。理由はは単純で、受験太りである。僕の高校の近くには一周3キロの仁徳陵があるのだが、最初の練習でいきなり走らされた。僕の体型では一周走り切ることさえも困難であった。この時の体型はまさに魔人ブウだった。何かをチョコにできるわけでもなかった。つまり、ただのでぶだった。しかも後々わかったことなのだが、一緒に走った人たちはサッカー部の中でもだいぶ速い人たちで、ボロ負けした。その時悔しくてふと、サッカーに体力とかいらんやろ。と思ってしまった。これは大間違いである。サッカーはむしろ走ってなんぼのスポーツである。それに気づいたのは先輩と一緒に試合をしたときである。後輩の自分が走らず、先輩が走っているのを見て、これはダメだと思ったのだ。当たり前である。それから、2年のときは、朝早く起きて走っていた。それでも試合ではなかなか走れず、3年の最後の試合も何もできずに負けてしまった。とても悔しかった。
最後に、今(大学生)。高校で悔しい思いをしたのもあるし、サッカーが好きなのもあって、大学でもサッカーを続けている。阪大サッカー部は周りが思っている以上にレベルが高いと思う。同期で言うと、ガンバユースなど、上手い人がたくさんいる。また、面白い人が多い。同期はみんな全然違って愉快である。こんな人達とプレーできるのは光栄である。しかし、それも後2年くらい。このままいくと彼らの足を引っ張ってしまうだろう。そうしないためにも、最上回生になるまでに自主練など自分の出来る最大の努力をしていきたい。そして一緒に勝ち続けたい。

これまでのサッカーや、サッカーに対する気持ちはこんな感じです。

2017年7月6日木曜日

ここまでの大学サッカー生活 2年 塚本雅士

こんにちは、昨年度、納会アンケート「可愛くない後輩」で栄えある1位に輝いた、
二回生塚本雅士です。

この部員ブログを書くにあたって去年1年間を振り返ってみるとやはり自分は「可愛くなかった」のかな、と思う部分がありました。
僕は、中学から高校の6年間ずっと同じ仲間と部活をしていてその人たちとは大学が離れてしまった今でもよく会いたいなという気持ちになっています。
そんな自分が、いざ大学に入り6年ぶりに新しいコミュニティでのサッカーということで、やはり最初は思ったように馴染めずその結果自分の思うようなプレーが出来ず、練習でも試合でも愛想が悪くどこか澄ました感じを出している人、つまり典型的な"ウザい"後輩になっていたように今では感じています。(いまもそんな感じだったら本当にすいません。)
今となって言うのもあれですが、同期もほんとに面白く個性豊かなひとたちばかりで、最初はこの中で面白さを作れない自分は仲間外れにされずにやっていけるのか、という不安でビビりながら部活に行っていました、、(笑)

ここまではちょっとした前置きで、自分のこんな暗いことばかり書いていてもいいことないのでもうこれくらいにしたいと思います。

そんな僕も今年度新チームになってからは、自分の意見をちゃんと言い、試合でもだんだんミスを恐れず自分のプレーができるようになっていきました。
そして、リーグの開幕戦ではスタメンとして出場することができ、その日の試合前のアップまでは、ここまでいい感じで調子が上がって来ているぞ、と気持ちを高めていけてました。

サッカーだけでなくスポーツというものは出場するだけでは意味がありません。"結果"が求められます。しかも今年のチームが掲げている目標のひとつ、リーグ戦無敗優勝がかかった初戦で勢いをつけるために必ず勝利が求められる試合です。
その初戦で僕はその日、たぶん今までのサッカー人生の中でも最悪なパフォーマンスの1試合となってしまいました。
理由は?、と聞かれても「緊張してました」としか言えず、ほんとにその後の1ヶ月くらいはずっと、なんであんなことになってしまったのかと、その試合のことを引きずりながらプレーしていました。
前期を7位という決していいとは言えない順位で終わったのも、この初戦の影響が少なくともあると今では思っています。

しかし、反省は必要ですがいつまでももう過ぎてしまった試合のことについて、くよくよ言っていても何もなく、「あれはあれでしょうがない」、と言えるくらいのメンタルを持ってやっていかないとダメだということに気づかされました。こんな1試合でナーバスになってしまうことは今まではなく、初めてのことですが、このような経験もチーム全体のの目標のひとつでもある「人間的成長」に繋がるのかなとも思ったりしています。

そして今もうすぐ夏休みに入るところですが、怪我も治りしっかり動けるのでちゃんと体づくりをして後期リーグにベストな状態で臨み、ここから逆転優勝できるように貢献していきたいです。
あとは今年の納会にも備えたいと思います。

小説は大好きですが、書く方はものすごく苦手だとこの部員ブログでわかりました(笑)

あと、吹田でよく試合しているので時間が空いてる人などは見に来てもらえるとテンション上がるので是非来てください!お願いします!

今後とも阪大サッカー部を応援よろしくお願いします。

2017年7月4日火曜日

クレームブリュレな自分 2年 安藤奨


こんにちは。体育会サッカー部2年の安藤奨です。

今年の2月の追いコンで、当時四年生の主将にこんなことを言われた。
「おまえは育った環境が甘いから、最後の最後で頑張りきれてなかった」。
最初はもう引退する先輩の、飲みの席での発言など気にも留めていなかった。しかし、時間が経つにつれて、この言葉は自分に重くのしかかってきて、いつしか自分が大阪大学で過ごした1年間を振り返るようになった。

中高一貫校に通った僕は、6年間部活でほぼ変わらない仲間とサッカーしてきた。サッカー部のレベルはお世辞にも高いとは言えず、今思えばぬるま湯につかりながらサッカーしていたのだと思う。

そんな気分のまま大阪大学に来て体育会サッカー部に入ったが、初めはレベルの高さに心底驚いた。特に当時四年生のエースを見たときは我が目を疑った。
「なんであの人は一番上手いのに一番走ってるんだろう。」と本気で考えていた。

スタメンの人の怪我で、運良くリーグ戦に出させてもらったが、その時も周りのレベルの高さを痛感していた。基本的に、このチームでは僕より走れない人はほとんどいない。自分のミスを先輩方は文句ひとつ言わず全力でカバーしてくれていた。
「なんで自分がミスったのに先輩に尻拭いさせてんだろう。」とか、
「なんでボランチなのに60分で交代してんだろう。」などと考えていると本当に申し訳なくて辛かった。
しかし、そんな中でも結局走りきれない、頑張れていない「甘い」自分がいた。

同期に関して言うと、このチームにはガンバ大阪ユースやナショナルトレセン、インハイ出場者や田辺など、とんでもない肩書きを持った実力者が大勢いる。このような環境でサッカーができてとても充実しているのだが、この一年そんな同期に頼りすぎている節がある。
ボランチをやれば、隣で経験を生かした的確指示で自分だけでなくチーム全体を牽引してくれるし、FWをやれば、前の二人は持ち前のうまさと運動量で自分を引っ張ってくれる。
苦しい時はいつだって田辺が助けてくれるし、プログラミングの課題はいつだってキャピあきが手伝ってくれる。こうしてみると今僕は本当にいろんな人に支えられている。こんなに支えられているのは赤ん坊か山王戦の三井寿ぐらいである。
しかしこんな状況に満足してしまい、改善しようとはしていなかった。

さて、なぜこんなにも甘くてぬるい、クリームブリュレみたいな人間になってしまったのか。
やはり学習院という、皇族が通い、周りの友達は大体"ボンボン"という環境で育ったことが原因なのか。しかし、母校をバカにしたくないし、皇族と絡んだことは一度もないし、なにより僕は"ボンボン"ではないのでこの可能性は考慮しないことにする。

先日、電話で母親に突然、
「あんたの人生には山も谷もない」
と言われた。いきなりなんだとは思ったが、確かにそうかもしれない。サッカーにおいて、何か大きな成功を勝ち取ったこともないし、大きな挫折を味わったこともない。ドラマのような恋愛をしたこともないし、好きな女の子に散々暴言吐かれた挙句、ラインをブロックされた経験もない。
このような人生経験の少なさが、僕の人としての器の大きさに影響しているのではないかと思う。

まず、大学生活の中で「山」と「谷」を作る。そうすることでクリームブリュレな自分からの脱却へ一歩前進できるのではないかと思う。そしていつの日か、
「おまえの栄光時代はいつだ?」
と聞かれた時に、
「今!!」
と同時に
「大学時代!!」
と胸を張って言えるような、そんな大学生活をサッカー部を通して送りたいと思う。

以上で僕の部員ブログを終わります。最後まで読んでいただき誠に恐縮です。
これからも末永く大阪大学体育会サッカー部をよろしくお願いします。

2017年6月29日木曜日

なんとかならない! 3年 田邊颯


「なんとかなる」はとても便利な言葉であるが、人は成長しない。
 
  私はこの言葉が好きだった。「なんとかなる」の繰り返しで今の私はここにいる。苦境に立たされたとき、人は焦り、不安、苦しみ、辛さなどたくさんの負の感情に支配される。しかし、開き直って「なんとかなる」と思うと、それらは完全に消えることはないにしろ多少和らぐはずだ。少なくとも私はそうである。 何か上手くいかないことがあったり、ミスをしたとき、様々な場面でこの言葉を使った。気が軽くなるから。その効果、利便性故にこの言葉を使い続け、壁を乗り越えてきた。私1人でなんとかしてきた。私にとっては素晴らしい剣であった。

   一方で、それはただの逃げ道である。向き合っている物事に対し深く考えないと言える。自らはそれを放って流れに身を任せているだけにすぎない。今までなんとかなってきたのは、家族、友達など周りの力があったからだ。決して1人で乗り越えたのではない。上手くいかないことやミスを回りの人間がカバーしてくれたおかげだ。回りの力のおかげであり、自分は全く成長していなかったのだ。最近まで私はそれに気がついていなかった。とんでもない勘違いだ。今となっては回りの人間に感謝している。

  前述した通り、今まで私は、嫌なことや向き合いたくないことに対し「なんとかなる」と言って逃げてきた。しかし、人生設計ではそんなことは言ってられない。高校、大学進学共にしっかりと考えず回りに身を任せてきた。どの学校に行っても「なんとかなる」という軽い気持ちで。今の生活が楽しくないわけではない。しかし、軽い気持ちであったが故に、もしあの時違う選択をしてたら…と考える時がある。軽い後悔だ。一度きりの人生である以上、私は思う存分満足できる人生を送りたい。大学3年生である私はあと数年で社会に出る。どの道を進むかは自分で決めるしかない。回りは助けてくれるか。助けてくれないだろう。いや、助けれない。なんとかならない。自分の人生だから。このままの、逃げてきた私ではこの先後悔する気がする。

1つ上の大学4年生の人達は就活、院試に直面している。就活でどこに行こうか悩む人、院に進むか就職するか悩む人、とても大変そうである。現に、私も来年どうするかは決めていない。中には、やりたいことが明確な人、将来のビジョンを組む人もいる。羨ましい限りだ。1つ上の先輩達のおかげで、私は今の自分を見直すことができた。

  全く成長できてなかった私にはわずかながらまだ時間がある。これからを満足に生きるために、まず、残された時間で「なんとかなる」を捨て、道を作らねば。その道を歩けるかどうかはその次だ。

2017年6月26日月曜日

キャピあき的成長 2年 石田邦晃

こんにちは、大阪大学体育会サッカー部 二回生の石田です。

僕の本名はくにあきなのですが最近、キャピあきと呼ばれることがあります。そのきっかけは友達が某SNSで僕の写真に#キャピあきとタグを付けて投稿したことです。キャピキャピという言葉の意味を調べてみたところ、「明るく若々しく弾けている女性」という意味で、僕に当てはまった言葉ではありませんでした。しかし、過去の自分自身と比較すると今の僕はキャピれているのではないだろうか?


答えはYesです。


なぜなら、今の僕は友達にふざけた動画を撮られるなど以前なら嫌だったことも少し楽めるようになっているからです。過去に比べてキャピキャピしていると思います。

次にその変化は成長なのか考えてみました。少しふざけられる様になったことはいいことなのか?


答えはYesです。


ふざけられるようになった内面の変化は、実は、最近僕が心がけている「失敗を恐れずにやる」という考え方に繋がっています。
こんなことが大切なのは僕自身ずっと昔から分かっていました。しかし、実際は失敗を恐れ、ビビって何事にも挑戦出来ていませんでした。小さい頃には出来ていた挑戦も少しずつ大きくなっていく上で人の目を気にし、自分が傷付かないことばかりを考え、心のキャピタルの周りにキャッスルを築いてしまうことで、心のキャパシティが狭まり、結果的に自分の成長を妨げていたことに気付きました。新チームが発足して以来、キャピテンは選手一人一人に対し「人間的成長」を促してきました。成長の仕方は人それぞれですが、僕にとっての成長は、まさにキャピキャピできるようになったことだと思います。

しかし、「失敗を恐れずにやる」ということは頭で考えてはいても実際に行動に移すのは難しいときもあります。ふざけた動画を撮る時でも嫌だと思うこともあります。では、なぜやるのか?


それはその動画を見て声をかけてくれる人がいて、少しでも期待してくれている人がいると感じるからです。失敗しても「惜しい」と思ってくれる人がいると思えるからです。


二度目になりますがこんなことは前から分かっていることだと思います。でも僕はあまり日常では意識していませんでした。そして、ふとしたことで初心に戻って大切なことを再確認しました。なのでふとしたことでもたまに視点を変えて見てみることも面白いと思います。

#部員ブログ
#拡散よろしく

2017年6月22日木曜日

不平・不満のコントロール 3年 本條太郎

今シーズンも前期リーグが終了し、夏季の中断期間を挟んで後期リーグを残すのみとなりました。前期リーグの結果、順位は7位。開幕当初、無敗優勝を掲げていたチームにとって全く納得できる内容、結果ではありませんでした。どのような組織においても結果が伴わないチームには、内部から不平・不満が出てくるものです。あんな練習をしろこんな練習しろ、誰それより俺を使え。多くの私立大学は指導者がいて、そんな声も上がりにくいでしょうが、僕たちは学生が主体で運営しているチームです。練習試合もメンバー選考も全部自分たちとおんなじ学生が決めています。そりゃ自分と1つか2つかしか学年が変わらない人たち、いわゆる“幹部”がメンバーを決めていれば、特に出れていない選手から様々な意見が出てくるのも頷けます。幹部の人たちがそのようなメンバーに声をかけ、わだかまりを解消していくのは当然しなければいけないことです。試合に出ている選手が出ていない選手に声をかけるのはすごく難しい部分もあります。そんな中で試合に出ている出ていないは別にして、いろんな選手の意見を聞こうとしてくれる先輩方がいて、すごくありがたいなと思います。
チーム全体としては先ほど述べた通り、繰り返し繰り返し話をしていくことが一歩先に進む近道になると思いますが、それだけでは不十分で、不平を持つ個人個人が自分から変わらないといけないと思います。メンバー選考に限定して話をすると、出れていない選手がそれを押し殺してチームを応援するため、個人としてどのようにメンタルをコントロールしていけばいいのでしょうか。箱根駅伝3連覇中の青山学院大学の原監督がテレビで、「メンバーに入らなかった選手にそれを納得させる一番の方法は、自分で負けを認めさせること」だと言っていました。実力で劣る選手をあえてトップチームで使い、自分自身で実力不足を体感させるそうです。そうすることで出れていない選手も納得がいき、心の底からチームを応援することでチームに一体感が生まれてくるのだと、言っていました。この理論は駅伝の青山学院に限らず、どの競技においてもトップで活躍するチームには当てはめることができます。選手たちは本気で勝ちたいと思ってトレーニングに励んでいるからです。「いや俺本気でやってへんし。ちゃんとやったら俺の方がうまいし。」こんな理屈は通用しません。本気でやったからこそ心の底から負けを認めることができます。果たして今の阪大サッカー部はどうでしょうか。一人一人がよく考えないといけないと思います。

2017年6月20日火曜日

なんで、私が阪大に? 2年 大西高弘

僕はガンバユースでサッカーをしていた。同期の数人はプロになり、なれなかった者は強豪大学へ進学した。そんな中、僕は1年間の浪人を経て、阪大にきた。「なんで阪大きたん?」とよく聞かれる。僕は内心「そら受かったら来るやろ」と思いつつ、「家から近いからやで〜」とかっこつけて答えるが、嘘である。僕はどうして阪大にきたのだろう。心の中のリトル高弘に聞いても返事はなかった。

高3のとき、進路を決めなければならなかった。周りはみんな、上述したようにサッカーでの進路を考えていた。僕はAチームで試合に出たことがなく、みんなのように大学側から呼ばれておらず、サッカーで進学できる実力はなかった。そこで、勉強して国公立を目指すことにした。それから、勉強を始めた。塾にも通ったが、練習後に行っても寝てしまうばかりだった。そんな勉強で足りるはずがなかったのだが、僕は2次試験がサッカーだということもあり、落ちるわけないと思っていた。結果は不合格。僕は浪人することになった。

浪人の1年間は、本当に勉強しかしていない。最初は本当に何もわからず、微分もできないほどだった。第1志望は国公立でサッカーが強いという理由だけで神戸大学にした。微分もできない男が神戸大学を目指すのである。1年も勉強すれば神戸大学ぐらいいけるだろうという、わけのわからない見積もりだった。僕の頭は空っぽだったが、それが逆によかったのかスポンジのように全てを吸収し、みるみる成績は上がった。秋頃にはなんとか勝負できるレベルまできていた。そして迎えたセンター試験。大コケした。浪人中に10kg太ったのが原因か。それとも視力が落ちて、カリスマアパレル店員のような縁が半分の眼鏡を買ったのがいけなかったのだろうか。
僕はそれでも前期で神戸大学を受けることにした。心の中のリトル高弘がどうしても神戸大学に行きたがったのだ。しかし、結果は不合格。だが「不屈のライオン」の異名を持つ僕は諦めなかった。そして、受かる可能性はあるからという理由でダメ元で出願した阪大の後期試験に合格した。背中越しのチャンスを掴んだのだ。こうして僕は阪大に来た。

今は、阪大サッカー部でサッカーをしている。指導者のいないチームで、学生主体で頑張っている。そんなチームにあって、僕は前期リーグでフル出場させてもらった。全力を尽くしたつもりだったが、前期終わった時点で7位。本当に申し訳ない。自分は本当に応援に値する選手だろうか。
僕はユースで3年間Bチームだったが、Aチームのみんなが大好きだった。心から応援していた。なぜ自分は出れないのにそんなに好きだったのか。そう考えたときに、今自分のすべきことが見えた。それから、僕はBチームの試合を極力見るようにしている。応援してもらうために、まずは自分が応援するのだ。一体感は、そうやってできていくものだと思う。
ユース→浪人→阪大という僕にしかない貴重な経験を武器に、僕はこれからも阪大サッカー部の勝利に貢献したい。そして、大好きなサッカー部のみんなとともに成長していけたら最高だ。


長い割に大して面白くない文章ですみません。阪大サッカー部2年、大西高弘でした。

2017年6月16日金曜日

本気でサッカーしてます。 2年 由利衛

僕は今年でサッカーを始めて15年目である。
ランドセルを背負う前からボールを追いかけていた。これにはバティストゥータも驚きだ。


もし、おとさんが死球を受けていたら、今頃ドアラのバク転失敗を横目にシンカーを投げていたかもしれない。そう考えると感慨深い。

そんな、バティストゥータより11年早く、メッシより2年遅く始めたサッカーも、本気で取り組めるのはこの大学サッカーがおそらく最後だ。

本気でやることで得られる喜びや悔しさがあり、本気やるサッカーだからこそ味わえるおもしろさがある。そう思って僕は体育会サッカー部でサッカーをすることを選んだ。

これまでのサッカー人生を改めて振り替えると、僕の一番の課題はメンタル面にあったように思う。

チームが苦しいときや大事な勝負どころであと一歩踏ん張りきれない自分がいた。本気でやるサッカーこそ面白いとわかっていながらも、あと一歩のところで全力を出しきれない自分がいた。

今でも、プレーや試合展開においてあきらめてしまう所や、自分のプレーがうまくいかないと投げやりなってしまうときがある。

スラムダンクの福ちゃん並みのメンタルだ。

僕はこの課題を大学サッカーを通して乗り越えていかなければならない。苦しい展開で、チームを盛り上げることができる選手にならなければならない。本気でサッカーと向き合うことで精神的に成長しなければならない。それが今の僕にとっての「人間的成長」だと思う。


サッカーをする日々を楽しみ、メンバーと喜びを分かち合い、人間的にも成長していく。そんな有意義な4年間したいと思っている。


これからもサッカーについて本気で考え、全力プレーし、チームの勝利につながるよう取り組んでいきたい。

2017年6月13日火曜日

志 3年 浜見悠太

はじめまして、3回生の浜見悠太です。


僕が小学3年生から中学3年生まで所属していた地元のクラブチームには、毎年中学3年生に対して監督・コーチがその学年に合った漢字一文字を考え、その漢字を応援旗にしてもらうという伝統がある。

僕たちの学年には「志」という一文字を与えてもらった。

あれからほぼ6年が経って、今こうして部員ブログを書くにあたって、当時の監督・コーチが与えてくれた「志」という漢字の意味をもう一度深く考えてみた。

そして、サッカーをする上では「志」がとても重要なものであることに気づいた。


「志」の意味を辞書で調べると、主に3つの意味が出てくる。

一つは「心に思い決めた目的や目標」、二つめは「心の持ち方」、そして最後は「人のためを思う気持ち」である。

日々の生活のなかでも「少年よ大志を抱け」「志を高く保て」「初志貫徹」などと言うように、一つ目と二つ目の意味はよく知られていると思う。

しかし、三つ目の意味「人のためを思う気持ち」というのはあまり知られていないのではないだろうか。

サッカーに置き換えて言えば、「人のためを思う気持ち」は「チームのために、チームの勝利のためにという気持ち」であると言っても差し支えはないだろう。

僕は、この三つ目の意味での「志」を意識することこそ重要であると考える。

もちろん、サッカーをやる上で「ドリブルの精度を高める」や「当たり負けしない体を作る」というような目標を立て、そのときの「やってやるぞ」という気持ちを忘れずに努力を重ねることは大切なことであり、そのことは何も目標を決めずダラダラと日々を過ごすことよりもよいことである。

しかし、サッカーはチームスポーツである。

いくら選手が高い技術、能力を持っていても、それをチームのために活かせないならその選手は無駄になってしまう。

選手にとって重要なのは、自分の実力をチームの勝利のために発揮することである。

さきほど「三つ目の意味での『志』を意識することこそ重要である」と言ったが、それはなぜか。

一つ目、二つ目の意味での「志」を意識することはおそらく簡単なことである。

というより、無理やり意識しなくてもできることである。

しかし、そうして身につけた実力を、ただ自分のためだけでなく、チームの勝利のためにも発揮できるようになってこそ、その実力が身についたと言えるのではないだろうか。

僕は三つ目の意味での「志」を意識することが重要だと述べたのは、そう感じたからである。

プレーでチームの勝利に貢献できるように、僕はこれからも「志」を持ちながら努力を重ねていこうと思う。


最後になりましたが、サッカー部関係者の方々、OBならびにOGの皆様、平素よりサッカー部の活動を応援していただきありがとうございます。皆様のおかげで我々部員は素晴らしい環境でサッカーができています。これからも感謝の気持ちを忘れず精進して参りますので引き続きお力添えをよろしくお願いいたします。


2017年6月8日木曜日

サッカーにまつわるエトセトラ 3年 大沢幹太


今まで部員がサッカーにまつわる十人十色の話を書いてきたが、僕は僕にとってのサッカーがどのようなものなのかを書こうと思う。

キャラメル気分で迎えた幼稚園の入園式、 僕は当時大好きだったガオレンジャーのガオブルーの靴下を履いていた。下駄箱で上履きに履き替えていた時に、隣にいた男の子もガオブルーの靴下を履いて いて、その場で友達になり、すぐに親友になった。その親友に新しくできた地元サッカークラブに誘われて、僕のサッカー人生は始まった。

    気づけば14、5年目のサッカー人生。僕のサッカー人生はまさにあまりにも絵になりそうな魅力的な長いハッピービーチだ。いや、だいぶ話を盛ってしまった。要するにとても長い。転勤族だった僕にはサッカーは拠り所で、サッカーから様々なことを学んできた。友達の作り方、努力の仕方、世の中に色々な文化/価値観を持つ人がいること、自分が健康でいられることに感謝すること、自分が色々な人に支えられていること、目標を持つことの大切さ、気づくことの大切さ、全力/本気の大切さ、他にもたくさんの「生き方」を教わった。そんなサッカー、僕の生活に染み付いたサッカーができるのもあと1年半しかない。

    今の僕にとって、サッカーとは大学サッカーである。大学サッカーは多くの価値を生み出す、可能性に溢れた舞台だと思う。阪大サッカー部に限って見ても、いくつもその価値が見つけられる。僕らは昨年おこなった支援学校の生徒へのサッカースクールで純真無垢な生徒の笑顔を見ることができたし、親族の方からも感謝の言葉を頂戴した。係制度というチーム運営を真剣に考える場では、阪大サッカー部に地域貢献などの新しい価値をもたらしたし、与えられた役職でみな成長できている。試合ではOBの方々や選手の親族や友人や関係者各位へ微小かもしれないが感動の類を提供できているはずだ。また普段の練習では先輩からは各人生経験に基づく姿勢から多くを学び、同期とは互いに切磋琢磨し、後輩へ良い影響を与えられるよう努力する、など、自分を見つめなおせる環境がある。確かに僕らは将来サッカーで生活するわけではないだろうが、社会人として生きていくために必要なことは、部活から十分に学んでいると思う。そういう場としての価値も大学サッカーにはある。

僕は来年、阪大サッカー部の主将をやらせてもらえることとなった。この舞台を引き継ぎ、守り、発展させ、繋げることが僕の役目であり、責務である。先輩の最後の舞台を笑顔で送り出し、同期に一生忘れない、純粋に何かに向き合った経験を残し、後輩へ方向を示すことが目標であり、マストである。誰にも無駄な部活生活だったと思わせないし、周囲の人からも思われたくない。
   
    先日、前述した、僕をサッカーに誘ってくれた友達と偶然にも対戦することがあった。約10年ぶりに再会し、初めて敵としてピッチで対面した。自分でもなかなかにスゴイラッキーボーイだと思う。当たり前だが見た目も性格も昔と変わっていた。しかし、走り方や蹴り方はあまり変わっていなかったことが印象に残っている。試合には負け、彼にも点を決められたのだが、改めてサッカーの素晴らしさを感じた。

サッカーはこれまでも僕にこのような感動を与えてくれた。そのどれもが僕にはかけがえのない思い出であり、一生の糧になると確信している。そして、きっと、これからもサッカーは僕に色々な感動を与えてくれるだろう。だから僕はサッカーが好きだし、価値を感じられずにいられない。

つらつらとサッカーにまつわるエトセトラを書いてきたが、僕のサッカーに対する感覚がなんとなくわかってもらえたらと思う。これまでのサッカー人生、今の大学サッカー、全部ひっくるめてのサッカーは、僕にとっての僕が大好きなサッカーはこんな感じだ。長かったサッカー人生はふわふわと波に乗りに、あと1年半で渚まで来てしまう。岸にくればもう本気でサッカーに打ち込むこともなくなるだろう。決して後悔を残さずに渚に行こう。そして、その時までハリキって行こう。


最後までお読みいただきありがとうございました。
前期リーグが終わり7位という結果ですが、私たちは後期リーグへ向けてより一層頑張って参ります。
今後とも大阪大学サッカー部のご支援ご声援を宜しくお願い致します。

2017年6月5日月曜日

感謝と貢献 3年 橋本航汰

こんにちは。3回生の橋本です。

僕はついこの前までケガで練習を離脱していた。腰椎椎間板ヘルニアという腰のケガで、程度の軽いものだったが練習に復帰するのに2ヶ月かかった。2ヶ月の離脱というと短いと思う人もいるかもしれないが、今まであまり大きなケガをしたことのない僕にとってはとても長いものに感じた。この長い期間に気づいたことがある。その発見をこの機会に話そうと思う。


僕が気づいたことは2つ。自分のチームに対する意識とチームメイトへの感謝である。


まず自分自身のチームへの意識について。
僕はリーグ戦開幕の半月ほど前にこのケガを患った。開幕後数試合は思ったように勝てず、チームの状況は良いとは言えなかった。そんな中、自分だけがなにもできないでいた。もしケガをしていなかったとしてもトップチームで試合に出れていたわけではないが、その権利を得る土俵にも立てない、なにもできない自分に腹が立ったし、本当に悔しかった。
そのとき気づいた。去年、一昨年はこの悔しさが自分から生まれたか?おそらく生まれていなかった。もちろんチームが勝てば嬉しかったし負ければ悔しかったが、その頃は自分のことに精一杯で”チームのためにプレーする”ことなど頭になかったと思う。
ただ今年は違った。チームに貢献したいという気持ちが強くなっているのを感じた。



2つ目はチームメイトへの感謝である。

先輩方が早く戻ってこいと励ましの言葉をくださった。後輩たちが容態を心配してくれた。マネージャーは僕専用のリハビリブックまで作ってサポートしてくれた。本当にありがたかった。

「今日は雨降ってるからサボってるんですか?」と後輩の安藤に言われ、「今日も休憩ですか?」と後輩の安藤に言われ、「まだ腰痒いんですか?」と後輩の安藤に言われた。こいつだけは許さない。

僕が復帰できたのは(安藤以外の)阪大サッカー部全員のおかげといっても過言ではない。そして同期のみんなが僕の復帰を喜んでくれたことが何より嬉しかった。



この2つが僕が療養中に気づいたことだ。
この2ヶ月間、サッカーはできなかったが決して無駄ではなかった。選手としても人間としても成長できたと思っている。
2ヶ月のブランクは大きいが、周りへの感謝を忘れずにこれからプレーでチームに貢献したい。



拙い文章を長々とすみません。あと、安藤にもちゃんと感謝してます(笑)

最後までお読みいただきありがとうございました。

2017年6月1日木曜日

サッカーを続ける理由 2年 床並健太

僕がサッカーを始めたのは小学1年生の時で、1年の浪人生活を考えても、今年でサッカーというチームスポーツを14年間続けてきたことになる。ここで「チームスポーツ」という言葉を強調したのは、後に述べる僕がサッカーを今まで続けている理由と大きく関係しているからだ。

まず、なぜ大学生になってまで部活という環境でサッカーをする事を選んだのか、について話したい。
出身高校は、サッカー部がお世辞でも強いとは言えない某SN高校で、僕自身も飛び抜けた何かを持っているわけでもない。
それでも部活を選んだのは、僕の中でサッカーが、「仲間と日々厳しい練習に励み、喜びも悲しみも分かち合うチームスポーツ」だからである。なので、大学でサッカーするという事は、部活に入るという事と同義だった。
ただその分甘くもなく、サッカーをしていると辛い時も苦しい時もある。ただ、それを一緒に乗り越えてくれる仲間がいたから、僕はサッカーを続けてこれた。

サッカーが、ただ22人集まって球を蹴るだけのスポーツだったら、僕はこれ程長くサッカーを続けられなかった。
サッカーが、勝利を目指してチーム全員が1つとなるスポーツだから、そう思えるような仲間と出会えたから、今まで、そしてこれからも続けていくのだと思う。

2回生になった今年、後輩という新たな仲間が入ってきてくれた。
先輩も、同期も尊敬する人しかいない。
恵まれた環境に感謝し、素晴らしい仲間の為に自分にできる事を1つでも多く探し、実行して、チームの勝利に貢献したいと思っている。

2017年5月29日月曜日

チームの勝利の為に 2年 坂井優太

試合に出る人は出ない人の気持ちも背負ってプレーする責任がある。
これはいつ何時も、どんなスポーツにも当てはまるごく当たり前のことである。

自分も試合に出るようになって以来、このことを頭に置いてプレーしてきたつもりだ。
だが部員ブログを書くにあたり振り返ってみると、最近では自分のプレーに一種の「甘え」が出てきたように思う。

リーグ戦に出始めた頃は、先輩に迷惑かけてはいけない、と緊張感をもってチームを第一に考えたプレーを心掛けていた。
二回生となった今、リーグ戦特有の雰囲気にも慣れてきて、リラックスした状態で試合に臨めるようになった。
またFWを同期の2人と組むことが多くなり、プレーを楽しむこともできるようになった。
これはべつに悪いことではない。
が、それと同時に「自分第一」のプレーが多くなってしまったように感じる。

自分が動きたいように動き、自分の好きなプレーを中心にするようになった。
足の怪我を言い訳に激しい接触、球際の寄せを避けてしまっていた。
しんどい時には同期2人に頼ってしまう自分がいた。彼らなら自分に合わせてくれると思ってしまった。
いつの間にか彼らに、先輩に「甘え」てしまっていた。
反省だ。

これを機に一度初心に帰り、「チーム第一」のプレーを意識して、進んでハードワークしていこうと思う。
点を決めれなくても、アシスト出来なくてもチームの勝利に貢献することはできる。

チームの勝利に必要な選手に僕はなりたい。

2017年5月25日木曜日

"本気"のサッカー 3年 森山絢太

僕がサッカー部に入ったのは1回生の春休みの3月であった。もうすぐ2回生になろうかという時である。それまで何をしていたかというと、特に何もしていない。学校が終わればバイトやカラオケ、ユニバへ行ったり。。

まあ、それなりに大学生"らしい"生活はしていたと思う。サークルもサッカーサークルへ入り、高校まで続けていたサッカーを続けていることにはなっていた。しかし、1回生の冬ごろ何か違うなと思い始めた。サークルのサッカーを楽しく感じなくなったのである。サークルを批判しているのではなく僕自身の問題である。さらに、大学生活において本気で取り組めることが何ひとつなく、何か物足りなさを感じていた。

高校の時の最後の総体で県ベスト4に入り、近畿大会に出場し、それで満足して選手権には残らなかった。この時選手権まで残ろうという意思が全くなかったため、自分はそこまでサッカーをやりたいと思ってはいないと思っていた。そのため、大学で体育会サッカー部に入る気など全くなかった。しかし、サークルでサッカーをしているうちに気づいた。自分はサッカーが好きなのではない。"本気の"サッカーが好きなのであると。今まで真剣に取り組むサッカーしかしてこなかったので、気付かなかった。真剣にサッカーの練習をし、試合に勝つことこそがサッカーの楽しさであることを"本気の"サッカーから離れて初めて気付かされた。

そして今、サッカー部に入り1年以上が経過した。途中入部という難しさはあったが、真剣にサッカーをしたいという気持ちがそんなもの吹き飛ばしてくれた。僕にとって、大学生活において本気で取り組めるものはサッカーしかなかったのだ。時々、1回生の最初から入部していたら、今ではもっと上手くなっていたかもしれないと思うこともある。しかし、過去を悔やんでも仕方がない。今から上手くなればいいだけだ。

これからも"本気の"サッカーを楽しんでいきたい。

2017年5月22日月曜日

責任 3年 清水謙



あなたは、背番号「7」のサッカー選手といえば、誰を思い浮かべるだろうか。


やはり、クリスティアーノ・ロナウド、ベッカム、日本人なら中田英寿、遠藤保仁あたりだろうか。

誰を思い浮かべるかは人それぞれだろうが、「7」を背負う選手はチームの中心として毎試合ピッチに立ち、高い技術を活かして勝利に貢献する。

だいたい皆がそのようなイメージを持っているのではないだろうか。


今季阪大サッカー部の「7」を背負うことになったのは、そう、私である。

昨季のリーグ戦が終わって新チームがスタートするときに「7」が空いたので、立候補して受け継ぐことになった。

私が今まで見てきた阪大サッカー部の「7」の選手たちは、サッカーが上手く、Aチームで結果を残してきた選手たちだと思う。

しかし、私は1年次や2年次に「7」を背負うに相応しい活躍をしたとは全く思わないし、チームに不可欠な存在であったとも思わない。

当然この番号をもらうことにためらいはあった。

それでもこの番号を選んだことには理由がある。

「7」の選手が試合に出ていないのはカッコ悪いし、「7」を背負うことで、試合に出続け、チームを勝たせる選手にならなければならない、という責任やプレッシャーが生まれる。そういう選手になるためには自分のサッカーへの取り組みを改善し、もっと上手く、強くなる必要がある、という意識が生まれる。

今までの自分を変えるために選んだ、といってもいい。


私が阪大サッカー部に入部したとき、特に何か大きな目標や明確な目標を持っていたわけではなかった。

・別にプロになるため、サッカーをするために阪大に入ったわけではない。

・本気でやるサッカーは高校までのつもりだった。

・でも他に入りたいサークルがあるわけでもないし、体育会は就職に強いらしいから、まぁサッカー部に入るか。

入部当初はこんな風に考えていて、何か心に引っかかるものがあった。

それでもサッカー部に入部すると、周りは皆本気でサッカーに取り組んでいたので、自分も真面目にサッカーに取り組むことになった。

1回生のときはAチームで試合に出ることはなかったが、2回生になるとAチームでけっこう試合に出られるようになった。

しかし、度重なるケガの時期や、ケガが治っても試合に出られない時期もあった。

そういう時期は特に、サッカーを楽しめず、やはり何のためにサッカー部に入っているのかわからなくなることがあった。

小・中・高のときのようにサッカーと本気で向き合えていないとも思った。

自分でも何となくわかっていながら、なかなか変われなかった。

次第に、これではサッカーに対して、サッカーをさせてくれている家族、チームに対して失礼だと思った。

2回生の11月にリーグが終わり、新チームがスタートするとき、私は、

「今までのようなサッカーへの取り組み方では、4回生の11月になってサッカー部を引退するときに絶対に後悔が残る。」

と考えた。

そして、自分を変えないといけない、それなら何か責任や使命を持とうと思い、「7」を選んだ。

「7」を選んだ以上、無責任なことはできないし、試合に出続け、チームの2部B優勝、2部A昇格に貢献しなければならない。


来年こそは、と思い、2回生の12月に新チームが始動したが、私はその時期に手首の骨折が判明し、3月上旬までサッカーができなかった。

ようやく復帰し、Aチームに戻るのは時間の問題だと正直思っていたが、自分のプレーがうまくいかないこともあり、これを書いている現在までずっとBチームに甘んじている。

昨年までの自分ならば、この状況に立たされたらやる気を失っていたかもしれない。

しかし、今年は違う。

「7」を背負う責任があるし、チームの2部B優勝、2部A昇格にプレーで貢献するという目標がある。

この覚悟が口だけにならないように、これからも戦っていく。



2017年5月18日木曜日

阪大サッカー部に所属する"人" 3年 山田護

まず新入生には入部してくれてありがとう。
これからサッカー、勉強、恋愛と大学生活を思いっきり満喫してほしい。
それはさておき、
サッカー部に所属する人はどんな人がいるのか
そしてどんな人になってほしいかを伝えたいと思う。
まずは同回(同級生)のことを話そう。
僕は名古屋からきたが、当然関西人がどういう人かを自分なりにイメージしていた。
優しくて熱く、関西弁を話し、おもしろいイメージだ。
そのイメージをことごとく粉砕していった。
小ちゃくてゴリゴリで口が悪いやつだったり
顔と行動のギャップがかけ離れ女性に目がないやつ、
南の関西弁をはなすが直ぐ僕にだけキレるやつ
話がおもしろいがすぐ約束を破るやつなど。
そして僕は最初からこういう同回にアホ、ブス、というレッテルを貼られた。
最初は抵抗したがそんなもの全く無駄だった。
だが同回と過ごしていく中でやっぱり
面白いやつばかりということがわかった。
結局イメージが少し美化されすぎてたわけだ。
同回と過ごすのは3年目だが本当に楽しく、
僕にとってなんでも話せる間柄である。
次は先輩、後輩のことを話そうと思う。
先輩に関しては同回よりも凄まじいイジりが多くあった。
ブスなどかわいいものでB、ゴキ、オブスビetc
口だけならまだしも殴る蹴るも横行していた。
僕の家は少し下宿にしては広いのだが
なぜかなにしてもいいという風潮がある。
いいわけがない。
人の家でキャベツをちぎって捨てていい?
いいわけがない。
だが飯に誘ってもらったり、話してもらったり
遊びに行くのに連れていってもらったり
僕はとても感謝しているし、いい先輩に恵まれたとおもってる。そしてこういう先輩達を
尊敬できる"人"と思っている。
後輩には5月の段階でもうイジる対象として見られていたと思う。
大西、大谷が先導して、自分の威厳を見せる前に後輩全体にそういう先輩として見られてしまった。
だが結局こいつらも時折自分のことを先輩としてみてくれてるんだなと思うことがある。
そして早くも大学の部活も3年目に突入。
これからはチームのことも少し考えていかなければいけない。けれど自分という"人"の根幹は変えずにやっていきたいと思う。
新入生にはすぐに部活に馴染めとは当然いうことはできない。まず同回と、そして先輩と、
そして来年からは後輩と。サッカー部ではサッカーが上手いのが確かに一番いい。極論試合に出れればいい。
やっぱり試合に出て、その試合に勝つと本当に嬉しいし、少しでも良いプレーをするとその日の夜に思い返してまた嬉しい。
もし悪くても先輩たちと話してアドバイスをもらったりそれを実践したらおのずと良くなる。
これはサッカーだけじゃなく"人"としてもだ。
サッカー部を通して、いやサッカー部の"人"を通して自分の大学生活を意義深いものにしてほしい。
できるだけ小手先のテクニックを使って文章を書きました。ご容赦ください。

2017年5月15日月曜日

残された時間の中で 4年 藤森和哉

『残りのサッカー出来る日にちはあと多くて7ヶ月』
それが去年の年末の僕の合言葉だった。
というのも去年前十字靭帯を損傷して手術することになり完全に復帰出来るのは5月中と医師に言われたからである。正直病室でサッカーを続けるかずっと悩んでいた。あと7ヶ月とは言うものの進路の関係上実際にはもっと少ない期間しかサッカーをすることが出来ないという現実。それに加えて高校でのサッカーよりも大学のサッカーへの情熱が弱いということを実感していたからだ。
それでも僕は復帰することを選んだ。自分にしか出来ないプレー、チームでの役割があるのではないかと思い始めたことがきっかけだった。自分と同じサッカー人生を経験してきた人は誰もいない。それならその経験をチームに還元することが大事ではないかと考えるようになった。
  リハビリにしっかり通うことで今年の4月に僕は予定より少し早めに復帰出来たわけだが、残された時間はやはり少ない。その中でこれからのサッカー部が良くなるように少しでも貢献出来たらと思い日々を送っている。怪我をして迷惑をかけた仲間と一緒に、そして仲間のために最善を尽くしていきたい。それがサッカーを出来るという喜びを取り戻した僕の今の目標だ。

2017年5月12日金曜日

自分にとってのサッカーと今年への想い 4年 室谷隆太

皆さん、こんにちは。4回生の室谷隆太です。
石川県の泉丘高校出身で、今年も1回生が入り、現在阪大サッカー部には4人の泉丘出身がいて嬉しいばかりです。

では、今日書く内容は
⑴部員ブログについて
⑵自分にとってのサッカーとは
です。よろしくお願いします。

⑴部員ブログについて

まず、この部員ブログは、一応、僕が広報係に提案したのがきっかけで始まった。
縁あって関学サッカー部の人と話す機会があり、その時に関学サッカー部のチーム運営などについて聞いた。
その取り組みの中の1つに部員ブログがあり、また、以前から、他大学がやっているのを目にしていて、部員ブログには関心があった。

部員ブログをやる理由や目的を自分なりに考えてみると、
①日々の目標や今考えていることを文章にすることで、部員自身が自分の考えを整理し、目標などを明確化できる
②そうした部員の生の声や考えを、身内だけでなく、OBさんや新入生、学外の方にも発信することで、今の阪大サッカー部を知ってもらう
③阪大サッカー部を知り、身近に感じて貰うと同時に、応援されるような部活・チームになることに寄与する
あたりが挙げられると思う。特に②③の意図が大きいと考えている。

身内や一部のOBさんだけでなく、広く応援されるような部活動であるために、部員ブログが貢献してくれたら嬉しく思う。


⑵自分にとってのサッカーとは

僕にとってのサッカーは生きがいであり、最早生活の一部のようになっていて、今の自分にとっては無くてはならないものだと思う。
サッカーほど、生きがいや喜び、刺激を自分に与えてくれるものは今のところ他にはない。
点を取ったり、自分がいいプレーをしたりして、チームの勝利に貢献できた時の喜びは格別である。
今までサッカーをしてきて、そういう喜びを何度か経験してきた。
そういう一瞬の喜びや勝利のために、僕たちは日々努力しているのだと思う。

しかし、もちろんそういう華々しくて楽しい時間だけがサッカーではない。
チームが勝てない時やプレーが上手くいかない時が沢山ある。

僕自身、高校までは試合に出ていたが、大学ではAチームでの公式戦出場は0。
正直、何故サッカーをやっているのか見失っていた時期もあったし、腐っていた時期もあったと思う。
しかし、それでも辞めずにここまで続けてきた。
途中で諦めたくなかったし、逃げ出したくはなかった。

同じように試合に出ていなくても腐らずに努力する仲間を見てきた。
また、試合に出ているメンバーがチームのために、一生懸命プレーする姿を見てきた。
そういう熱くて努力家で、才能に溢れた仲間にいつも刺激を受けてきた。

そして、自分自身、もう一度試合に出る喜びを味わったり、どんな形であれチームに貢献する喜びを味わったりしたいと願い頑張ってきた。

4回生になって、サッカー歴も16年目に突入した。
サッカーを本気で出来るのは今年で最後だと思う。
勿論、結果に拘りつつも、過程や細部の精度を高めていきたい。
今までなんとなくやってきたことも、意味を考えて、丁寧に取り組んでいきたい。
そして、大学生活、サッカー人生をやり切ったと胸を張って言えるくらいに、とことん努力していきたい。
個人としての努力は勿論、チームのために出来ることを考えて精一杯取り組んでいきたい。

そして最後には、2部Aに昇格して4回生全員が嬉し泣き、若しくは満面の笑みで引退出来たら最高だと思う。


最後にいつも応援してくださるOB様や保護者、チーム関係者の皆様に心より感謝致します。
僕たちがサッカーを出来るのも、皆様のご支援あってのことです。
リーグ戦では厳しい状況が続きますが、チーム全員で勝利のために頑張ります。
神戸大学との阪神ダービーなど、吹田での試合もございますので、今後とも暖かいご声援よろしくお願いします。

拙くまとまりない文章になってしまいましたが、御一読有り難う御座いました。

2017年5月8日月曜日

「いい人」と「必要な人」 4年 中郷勇輝



大学でもサッカーを続けるつもりは全くなかった。
高専(神戸市立工業高等専門学校という5年制の学校)で主将としてそれなりの結果を残し、一生懸命するサッカーは20歳できりよく終わらせればいいと思っていた。

甘かった。1回戦敗退。
悔し涙も流せない不完全燃焼。
一体今まで何をしてきたのか、なぜ最後の最後でチームとしてまとまれなかったのか。
それから数日間はそんなことばかり考えていた。
けれどもこれといって納得できる理由は見つからず、ただ
「これで終わってはいけない」
そう思った。


父親がサッカーの指導者という影響で、物心つく前からボールを蹴り始める。自分にとってサッカーとは楽しいとかやりたい事というよりかは、あって当然のことだった。小学生の頃なんかは、まわりの友達がみんな少年野球に入団していて、何で自分だけサッカーじゃないといけないのか、ともやもやしていたこともあった。

こうして振り返ってみると、心の底からサッカーを頑張りたいと思ったことは、今までのサッカー人生で無かったような気さえする。それでも大学では、はじめて自分からサッカーに対して真剣に取り組もうと入部することにした。何より、あのとき見つけられなかった答えをもう少し探してみたかった。


いざ練習に来てみると、3年次編入ということで、やはり珍しいものを見るような目で見られていたように思う。自分自身はというと「12年の仕事を経験せずにいきなり先輩かよ」とか「即戦力にもならんやつが中途半端な時期から入ってくんなや」などと思われているんだろうなぁ、とネガティブになることが多かった。

はじめこそ自分の色を出そうと息巻いていたのだが、いつしか早く部員に認めてもらうことを目指すようになっていた。そうしてまわりのことばかり意識するようになると、プレーもうまくいかない上、周囲との距離感も縮まらないままで、何のために部活に来ているのか分からなくなった。

昨年の半年くらいはそんな感じで悩んでばかりだった。それでもどうにかしなければ、と必死になった。そしてある問と向き合ったとき、はっとした。
「自分はいい人になりたがっているだけではないだろうか」

思い返せば、高専時代もチームのためと銘打っておきながら、結局のところはいいキャプテン、いい先輩と思われたかっただけではないだろうか。本当に組織のために優しく厳しい存在であれただろうか。そして選手として常にもがき続けていただろうか。

改めて考えてみると、自分の言動はまわりからいいように思われたい、という感情がまず先にあった。それでは人の心は動かせないと、今更ながらに気が付いた。同時に、一緒に輝いていきたい仲間にとって「必要な存在」にならなければいけないと思った。

そう考えられるようになってからは、ずっと心の奥に巣くっていた「よく思われたい小さな自分」と別れることができた。今までどうしても自分をネガティブにさせていた「3年次編入」という事実も、途中から入ってきたからこそ見えることがあって、いい意味で伝統に縛られずに意見できる、という自分にしかない強みだと捉えられるようになった。

「自分にしかできなことは何だろうか」
今はこれだけを考えて、少しずつだけど行動にも移している。


入部してからもう1年が経った。最近ではため口で話してくる後輩もちらほら出てきたりして(これには賛否両論あるだろうが)、さすがに入部当初よりかはちゃんとチームメイトになれていると思う。
個人的にはやはり「必要な人」になろうとした結果かなぁと。


あのとき見つけられなかった答えはまだ完全には見つかっていない。
それでもあと半年、1選手としも、1部員としても「必要な存在」になれるように努力する。
そして、最後の試合が終わったときは、今度こそ、それこそ嬉し涙でも流して
「今までサッカー続けてきてよかった」と思いたい。



僕の拙文は以上で終わりになりますが、最後に少しだけ宣伝をしておきます。
今年から「社会貢献係」というものを立ち上げました。これはボランティア活動を通して、阪大サッカー部が「地域を愛し、地域から愛されるチーム」となることを目指しています。

具体的には、地域の清掃活動やデイサービスへのお手伝いなどに取り組んできました。今後は小学校の生徒さんを対象にサッカースクールなんかもできればいいなと思ってます。
その活動の一環として、5/21(日)開催の関西学生サッカーリーグ2B7 神戸大学戦を地域皆さまにご覧頂こうと企画しております。詳細などは阪神ダービーTwitter公式アカウント(@osakakobe_derby)にございますので、そちらをご参照ください。多くの方のご来場をお待ちしております!

地域のみなさま、阪大サッカー部OBのみなさま、ならびに関西学生サッカー関係者のみなさま、今後とも阪大サッカー部をよろしくお願い申し上げます。