2022年3月30日水曜日

「少年田中のサッカーの軌跡」「大学サッカーへの思い」 3年 田中大智

 

 こんにちは。新3回の田中大智です。今回は2部構成の超大作となっており、前編後編がございます。

両編ともご覧いただくのが本望ですが、ウマイところだけでいいという方には後編だけでもお楽しみいただけます。


前編 

 私がサッカーボールを蹴り始めたのはおそらく幼稚園の年中さんでした。幼稚園のバスを降りるとすぐ母親が自転車で出迎えてくれ、小さな二人乗り用のイスの上で制服からサッカーの服へと着替えていたのを覚えています。いつもどことなく急いでいた思い出しか残っておらず、やったーサッカーだ!早く行きたい!という気持ちだったわけでもありませんでした。幼稚園時代はサッカーチームというよりボールを使って体を動かす集まりで、周りは知らない子だらけでした。友達1人いなかった時は、帰るのが遅く外は暗くて怖い、幼稚園のように仲良い子がいないから怖い、といったような恐怖の感情が強かったのではないかと思います。それではなぜその集まりに参加していたのかというと、私もよくわかりませんし、覚えていません。おそらく母にサッカーを勧められ、私も嫌なわけではなかったので続けていたのではないかと、つい先程母と結論づけました。何をいいたいのかといいますと、私のサッカー人生の始まりは積極性に欠け、受動的なものだったということです。

 幼稚園球蹴りから本格的球蹴りに移動したのは小学校3年生のとき、他校のサッカークラブに所属していた友達Rくんに誘われた時でした。初めてそこに参加した時の記憶は今でも覚えています。土曜日でした。初対面のチームメイトの中に、かつての幼稚園球蹴りを共にした仲間がいたのです。彼らは私のことを覚えてくれており、私も彼らを覚えていました。すごく嬉しかったです。やっと友達たくさんのところでサッカーができると。

 そこでの初めての練習は1vs1でした。私はRくんと高身長のSくん以外の全員に勝ち、ボロボロのギタギタにしてやりました。「こいつうまいわー!」と誰かが言ったことはこれからも忘れないでしょう。初めてサッカーを通して他人から認められた瞬間ではないかと、だから今でもこの日の記憶を覚えているのではないかと今になって思います。それからというものほとんど全ての試合でスタメン、点も取った方だと思います。

 しかし他の小学校にはうまい奴がたくさんいました。驚いたことに彼らは私と幼稚園球蹴りを共にした奴らばかりでした。私はどこか親近感とともに、幼稚園時代ではおれの方がうまかったのにという悔しさがありました。そこで火がつくのが普通ですが、「いつか」追いつくだろうという甘い考えがあったと思います。

 チームの中では上手い方だという驕り、もっと上手くなりたいという貪欲な向上心のなさ、誰かに勝ちたいという競争精神のなさが、この甘い考えを生んだのだと痛感しています。

 物語的にはここで中学校に入学し、強い奴らに圧倒され、激しいポジション争いの中底知れぬ努力をし、最後の最後でスタメンを勝ち取った。。的な話が売れるのでしょうが、私の話はそうではありません。

 中学に入ってからも甘い考えは続きました。1年の時から3年に食ってかかれるレベルであり、2年になっても1年に負けるなんてことは到底あり得ず、3年のときはほぼ3年だけで戦っていたようなものです。ポジション争いなど経験したことがありませんし、最初の最初からベンチには入っていました。私はこのままでやれる、そんな考えがあったのだと思います。井の中の蛙大海を知らずとはこのことでしょう。

 そんな甘ったれた考えを持つ田中に転機があったのは高校時代でした。宿敵S藤くんの登場です。S藤くんは私が今までの人生の中で最もサッカーが上手な人で、その上勉強もできるまさに実写版出来杉くんでした。

 中高一貫だった私の学校では、中3で部活を引退した後すぐに高校の部活に参加できました。高校から入ってくる新入部員に差をつけるべく私と他数名が早くから高校部活に参加していました。他のみんなは引退して遊んでいる中少し高いレベルで奮闘しているとすぐに新学期が始まり、新しい仲間が入ってきました。そこで蛙田中はようやく大海を知ることになります。新入部員はみんな上手でした。パスの精度やワンタッチの技術、サッカーの考え方やとりかごでの強さ(?)。私が上回っていたのは彼らが受験期で落ちていた体力だけだったように思います。私はすぐに抜かされると勘付きました。特にS藤くんはレベチで、利き足がどっちかもわからないような気持ち悪いタッチから目を追うのも大変なほど素早いドリブル、そして力強いシュート。。。

 どこをとっても負けていました。こんな選手は今までいませんでした。今まで、どんな上手い選手でもどこかしら自分が勝っているところがあって、そこに甘えていたのです。自分はあいつよりここが勝ってるから大丈夫だ。左翼はシュートが得意だけどおれはクロスが得意だから大丈夫だ。シュートじゃなくてもコーナーを取れればそれでいいや。どこまで甘えれば気が済むのでしょうか。書いている自分が嫌になりますが、どうか続けさせてください。


 

さすがの蛙田中も悔しさのあまり必死に自主練をしました。高一の4〜7月ずっと部活後近くの公園でドリブル練習をしてました。S藤くんは甘ったれた私に火をつけてくれたのです。S藤くんに少しでも勝つために、周りの新入り(細谷も含む)に負けないように。これからどんどん上手くなってライバルに負けないように頑張っていこうと思っていた矢先、細谷の誕生日の数日後でした(細谷は何も悪くない)。裏へ抜けたボールを追いかける途中、ピキッという音と共に腰が痛くなりました。腰椎分離症と診断され、3ヶ月の安静を余儀なくされました。体幹をひたすらこなし、3ヶ月後体を強くしてみんなを驚かせようなと、リハビリの先生と話したことを覚えています。その3ヶ月後復帰し数日してまた腰が痛くなり、分離症はまだ完全には治っていないらしく、また3ヶ月体幹をするだけの日々がつづきました。

 それからというもの、完治はしたが腰に違和感を抱えながらプレーし、かつての自分とはかけ離れた体力と技術、そして何より周りよりも劣ったそれに引け目を感じていました。いつしかの競争意欲というものは全くなくなり、部活を高2の12月で辞めました。そこには、勉強しなければならない、という考えがありました。が、一種の逃げでしかないという考えもできるかと思います。



後編「大学サッカーへの思い」

 前編で述べたように、私のサッカー人生は、なんとなくで始まり、貴重な時期を甘えて過ごし、最後は逃げで終わりました。サッカーの本質を掴まず、感覚でプレーし、限られた環境から認められることだけで居場所を作りそこに甘え、今その瞬間ではなく「いつか」という将来に期待し、最も大切な今という時間から逃げていたのです。

 

 ですが、このことに気付けたのはサッカーを大学となった今でも続けているおかげだと思っています。もし大学でサッカーをしていなければ、こんな甘い自分にこれからも目を瞑り続け、いつまで経っても考えが変わらないままだったでしょう。

 こんな甘い私に転機をくれ、迎えてくれる阪大サッカー部の懇意である同期、先輩後輩方に、そして火をつけてくれたS藤くんを始め今まで一緒にサッカーをしてくれた人たち、サッカーを始めるきっかけをくれた母に感謝します。

 私はこの阪大サッカー部になんとなくではなく、もう一度サッカーをやり直したいという強い決意のもと自らの意志で入りました。そしてそこで活気あふれ尊敬できる同期と出会い、さまざまな面で触発され、向上心と競争意識を持ち、日々練習に励んでいます。残り少ないサッカー人生1日1日の今を大切に、今に期待し、自分で自分を認められるようになるまで私は成長し続けたいと思っています。

 大学でサッカーを続ける人たちはみんな強い志があります。そして学生主体の阪大サッカー部にはどこの部活にも負けない一人一人の積極性があります。それはサッカーに対してだけではなく、班活動や企画、勉強などに対してもです。私はそれが阪大サッカー部の大好きなところの1つです。阪大サッカー部でなら、甘かった自分を認め革新し、サッカーの面でも、人間性の面でも大きく成長することができると信じています。


最後まで読んでいただき誠にありがとうございました。

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