2022年8月21日日曜日

「応援される人間になる」 2年 空山大輝


 

こんにちは。経済学部2回の空山大輝です。この部員ブログでは、私の目指す選手像について綴ります。


このブログの題名にしている、応援される人間になる、という言葉は中学2年時に、当時のコーチがよく口にしていた言葉です。家族や友達、クラスメートから応援される選手、地域から愛されるクラブになろうという思いで、チームのスローガンになっていました。


早速ですが、この題名にちなんで、私自身を見つめ直す契機となった試合があります。それは中学2年時の県リーグの試合です。前半、相手コーナーキックの際、自分がマークしていたセンターバックに失点を許し、私は悔しさから膝に手をつきました。ハーフタイム、私はベンチに戻ると、当時のコーチから檄を飛ばされました。「膝に手をついてる選手を見て応援したいと思う人がいるのか。悔しいんだったら自分が点決めてこいよ。」と。確かにそうだと思いました。しかし、その言葉でメンタルをやられた私は、最後まで点を決めることも無ければ、プレーもうまくいかず、結局試合はボロ負けに終わりました。


それを機に、自分がプレーする上で必要なことを考えました。上手にプレーするだけが、大事なのだろうかと。サッカーの世界には、技術の高い、上手な選手がたくさん存在しますよね。しかし、私がそのような上手な選手になろうとしても、どこかで限界が生じます。それなら、どのように他の選手より強くなれるのか?また、他の選手と差を生むことができるのか?

そう考えた結果、自分に必要なのは、「意識」を変えることに終着しました。例えば、ボールがコート外に出そうでも走って追いかける、ボールを取られたら取り返すまで追いかける、スライディングで失点をギリギリ防ぐ、チームのために走る、等。これらのことは意識すれば誰でもできると思うのです。俗に言う泥臭いプレーなのでしょうが、そういうプレーがチームの勝利には必要だと思うし、それを自分ができるようにしたいと思っています。プロの試合を見ていても、献身的な守備をしているFWや体を張ってゴールを守るDFのことを、個人的には憧れますし応援したくなります。もちろん、点を決めてヒーローになる、スーパーセーブをする選手も勝利には必要です。でも僕は泥臭い方が似合う気がするし、それでチームの為になるなら、本望です。そのように、チームの勝利のためなら何としてでも戦う選手になります。


私の高校サッカーは、高校総体中止という予期せぬ終わり方でした。そのような形でサッカー人生を終わらせる事などできるはずがありませんでした。そして勿論大学でも体育会サッカー部に入り、気が付けば一年が経ちました。後悔はしたくありませんが、最後の結果次第で後悔するかしないかは決まるのが正直な所だと思います。勝負すらできず終えた高校サッカーでの悔しさはとてつもなく大きいです。阪大サッカー部に入って、良かったと既に感じています。なぜなら、選手•スタッフがサッカーに対して熱意を持っているからです。正直すごいことです。後悔しないように、この環境を無駄にはしません。応援される人間になる、チームが勝つための選手になる、これを私の4年間の目標にします。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

「大学生って難しい」 2年 杉原翔太



はじめまして、そんな太ってるつもりないのに謎にデブキャラで通ってる杉原翔太です。


実はこの部員ブログ書くの2回目で、1本目は結構前に書いたんですがなんか格好つけすぎてたので書き直してます。あんま臭さを感じさせない文章が目標です。2回目なんで洗練されてます、たぶん。


さてハードルを上げるのはここまでにして本題にいきましょう。


部員ブログといえば、高校生のときに読んだとある強豪大に進学した高校の先輩のブログが一番に浮かびます。その先輩とは代も被っておらず名前も覚えていないのですが、、、。しかし、その内容は強く印象に残っています。題名は「かっこいいの定義」、そしてその定義とは「理想の状態を圧倒的な熱量で追い求めている」でした。


皆さんにとってかっこいい人ってどんな人ですか??高校生のときその部員ブログを読んでから、僕にとってのかっこいい人はまさにこの定義に当てはまる人です。熱い思いをもってなにかに取り組んでいる人を見るとグッとくるものがあります。


さて、ではかっこいい人は偉いんでしょうか?熱量を持ってなにかに取り組んでいる人は偉くて、何もしていない人は悪い。この二元的な区別は常に正しいのでしょうか?


大学に来て強く感じるのは、何かに熱を持って打ち込めるっていうのはとても幸せなことなんだなということです。大学に進学した多くの人は無限の可能性に晒されます。何にでもなれるし何でもできる。大人は口を揃えて言います。何かしたい。何かに熱を持って取り組みたい。輝かしい将来を自分の手で切り開きたい。夢中になりたい。本人もこう思っています。けど何がしたいかわからない。今やっていることが自分のやりたいことなのかわからない。いつのまにか日々が過ぎてく。自分の理想を体現している人を見て憧れる。自分もって思うけど、結局憧れるだけ。


これは去年の僕です。一回生の時はこの感情にずっと悩まされました。この問いの嫌なところは答えがないところです。色んな人に相談したし自分でもずっと考えてたのですが、いつも堂々巡りで終わるだけでした。


しかし2回生になって自分の思いにやっと整理がつきました。今は明確にやりたいことがいくつかあります。そのうちの一つはこのサッカー部を体育会の象徴にすることです。推薦もない、環境も決して整ってるとはいえない。そんな僕たちが強豪私立と互角にやり合っているところを想像してみてください。ワクワクしませんか?


結論、今めっちゃ幸せです。頑張りたいことがあって、それを頑張れる環境にある。決して自分だけの力じゃこの環境は作れません。いや、頑張ろうと思って作り出せるものじゃないと思います。とても恵まれた人間だとつくづく思います。


最後に。憧れの存在っていますよね。自分もこうなりたい。見るたびに思います。けどその人に自分はなれません。いや、たぶんなりたいわけじゃないんです。今の不満足な自分を否定して、憧れの存在と自分を相対的に評価して自分が劣ってると認識する。だから憧れる。


人間ってないものねだりなんです。まさに僕がそうです。けど今まさに自分が誰かから憧れられてる状況にいることを認識できてないんです。こう考えたら自己肯定感あがってきませんか?以上、去年の自分に伝えてあげたいことでした。


なんかまとまりなくなってしまいましたが最近こんな感じのことを考えてます。うん、要するに部活頑張りたいと思ってるってことです。

こんなペーペーの文章を読んでいただきありがとうございました!

「環境の変化」 2年 篠田和真



 こんにちは。基礎工学部の篠田和真です。バイトの面接で高校生?と聞かれるぐらい幼い見た目をしていますが浪人しています。今回はこの部員ブログを書くにあたって、僕のサッカー人生とその時の心境について振り返ってみたいと思います。


 小、中、高とサッカーを続けて高校で部活を引退したときは大学ではもうしないだろうと思っていましたが、いざ大学生活が始まると授業がオンラインになったりして家にいることが多くなり、なんだか物足りなさを感じ、同期のみんなには少し遅れを取りましたが体育会サッカー部への入部を決めました。大学生活は少し忙しくなりましたが、いい仲間にも出会えて充実した大学生活になったので入部してよかったなと思っています。


 中、高の部活はあまりレベルの高いものではなく試合にも出ることができていたのでそれで満足して、練習こそは真面目にやっていましたがそれ以上のことは特にせず、ただ楽しかったというのが中、高の部活でした。大学の部活でも練習を真面目にこなしていれば、いつかは試合に出られると思っていましたが、入部して一年近くが経ちそれだけでは試合に出て、チームの役に立つことは絶対にできないなとわかりました。全員がパスやシュートの練習一つ一つで意識を持っておこなっていたり、練習時間外で自主練をおこなっていたりするなど、それが普通なのかもしれませんが、僕の今までサッカー人生にはあまりなかった環境で、試合で活躍するには自分には何が足りていなくて、何をするべきかを自分で考えて練習する必要があるなと感じています。一つ例を挙げさせてもらうと、僕は体の大きさが人よりも小さく、これまで体の体格差で多少困ったことはありましたが、そこまで重大ではないと感じていました。しかし大学に入るとその差が顕著となり、体が当たっただけでバランスを崩したりといろいろな不便なことが出てきました。そのため食事やトレーニングを自分で考えて体を強くしなければいけないなと思い、ただいま実践中です。


 二回生になって上手な一年生も入ってきている中、いつまでも情けない姿を見せ続けるのは僕のプライドが許さないので、フィジカルの面や技術の面を向上させいい恰好を見せられるようになりたいと思います。大学のサッカー部といういい環境で練習ができていることに感謝しつつ、おそらくサッカーに本気で取り組める最後の機会だと思うので悔いのないように頑張りたいと思います。


 国語は大の苦手ということで、まとまりのない文章でしたが、読んでいただきありがとうございました。

「金ピカ」 2年 小林健太郎


 

 みなさんこんにちは、2回生の小林健太郎です。

このブログを手に取っていただきありがとうございます。普段からTwitterでいいねを貰えるようなふざけた文章を考えてはいますが、真剣な文章を考えるのは苦手です。ですが、この文章をペットの犬に読ませてみると、「キャンキャン(面白かったワン)」と言ってくれたので、楽しく読み進められると思います。すみません、そういえばペットなんて飼っていないし僕は猫派でした。


 冗談はこの辺にして、真剣に話したいと思います。


 皆さんには、いま夢がありますか。「ある」と答えられた方、とても素敵でかっこいいです。羨ましくて仕方ありません。「ない」と答えられた方にもう一つ質問します。夢を諦めた経験はありますか。


 僕には夢がありません。しかし、以前はありました。サッカー選手になるという大きな夢がありました。小学校高学年くらいの時期にその夢を諦めました。当時、自分の身に何か大きな変化があった訳ではありません。ただ、なんとなく「早く大人になりたい」とは考えていたのを覚えています。すなわち、自分には無理だと夢を諦めて大人になったふりを当時の僕はしていた訳です。今の僕はと言えば真逆で、どんなものでもいいから夢が欲しい、子供の頃に戻りたい、そんなことをしょっちゅう考えています。子供の頃に思い描いた大人の姿って、とても自由で自信満々で堂々としていてかっこいいものでした。そんな理想の大人になれると思っていました。しかし、既に成人を迎えた実際の僕の姿はどうでしょうか。常に周りの目や責任を気にしてビクビク怯えて生きています。


 サッカーにおいても、同じことが当てはまります。サッカー選手を夢みていた頃の自分と比べて、今の僕は身体能力やサッカーの技術、IQなど求められるほとんど全ての要素において優れています。しかし、ミスしたくない、先輩に怒られたくない、そんなことばかりを考えてプレーしているせいで、「サッカーを本気で楽しむ」という1番大切な要素で過去の僕にひどく劣っています。


 僕はいま怪我をしていてしばらくサッカーができていません。とてもサッカーに飢えています。おかげで、怪我を治し再びサッカーができる時、昔のように新鮮な気持ちで本気でサッカーを楽しむことが出来るはずです。「サッカーできる喜びを忘れない」これが僕なりに考えた1番正しい大学サッカーへの向き合い方です。


 『メロディなきメロディを奏で、道なき道へ行こう。そこに俺にとって一番の金ピカがあるのだ。』

漫画「宇宙兄弟」に出てくる僕の大好きな言葉です。夢なんて言うと手が届かなそうな気がしますが、金ピカなら手を伸ばし続ければ届きそうな気がしませんか?皆さんも僕と一緒に自分なりの金ピカを追い求め続けましょう。


 ダラダラと長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

「Born in the USA」 2年 柑本志温


 

こんにちは。2回の柑本志温です。今日は僕の課題について書きたいと思います。拙い文章ですが、最後まで読んでいただければ幸いです。


まず初めに、僕はアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで生まれ、アメリカ合衆国テキサス州ダラスで育ちました。「お前それしか言えへんのか」って言われそうですが、人とは違う何かがあるって嬉しいじゃないですか。アメリカで産んでくれた親には感謝しています。


では、本題に入りたいと思います。アメリカでサッカーを始めてから今日まで約15年間サッカーを続けてきました。異国の地でルールも分からず相手が自分のゴールに決めたのを見てそこに自分もシュートするところから始まって今日まで様々な課題を突きつけられてきました。そんな中でも永遠の課題の一つはメンタルです。簡単に言えば日本人とアメリカ人の両方の悪いところをとったという感じだと思います。


一般的にアメリカ人は自分の意見を言うことを恥じず自分を持っていて、日本人は共感性が高く、集団の中で自分の力を大きく発揮する、そんなイメージがあると思います。しかし、日本人でもあり、アメリカ人でもあるはずの僕はこの逆なのです。サッカーではFWをやっているはずなのに自分の意見を主張するのが怖く、また上手い人が怖いんです。逆に私生活では時間にルーズでKYです。これが今までの僕のメンタリティです。


時間にルーズでKYなことはもちろん問題なのですが一旦おいておきましょう。サッカーにおいて自分の意見を主張できない、殻を破れないというのは非常にもったいないと思います。小学生の頃から、年上の人とフットサルをするスクールでは体育館の隅で隠れ、小学生のちょっとした選抜なんかに行けばずっとビビッてチームメイト以外の人とは交流ができませんでした。高校時代は自分の実力よりも上の高校にチャレンジしました。入学した当初は底辺レベルにへたくそで、性格的にも言われやすいタイプなので同学年の中でも下っ端キャラでした。そこからの下剋上を目指していたわけですが、結局自分よりも上手い人たち対して自分の殻を破ることはできず、もっとできただろうという思いが残りました。今までの自分の挫折を振り返れば、もちろん自分の実力通りなのだが、それでもやっぱりもっとできたなという感情やもっとやればよかった、もったいなかったなという感情の方が大きいです。


大学では再びFWというポジションを始めて、この殻を破ろうと頑張っております。もちろん味方に主張するからには実力、知能が必要なのでそこは日々レベルアップするしかありません。またエゴをただ出し続けるのではなく冷静に判断するということも重要です。このことを忘れずに、私生活では時間にルーズな自分を直し、サッカーではアメリカ人のような強いハートを持ったなんちゃって外国人ストライカー柑本エルビス志温としてこれから頑張っていきます!


最後まで読んでいただきありがとうございました。

「自分」 2年 金丸周平



こんにちは。2回の金丸です。先輩方のブログをみていると、皆さんサッカーについて書いていると思いますが、僕のサッカーについてはあまり書くことが思い浮かばなかったので、僕の人となりについて書きたいと思います。


突然ですが、皆さんには「芯」がありますか?僕が思う「芯」とは、「これだけは誰にも譲れない」、「これをしたい」、「こうなりたい」、と言ったようなブレない意志のことです。僕はこの中でも「自分がなりたい姿」に対しての「芯」について書きたいと思います。


「芯」について書くとは言ったものの、僕には「芯」と言うものが全くなく、中身も何もなく、ふらふらしているからっぽな人間です。自分の体格とよく似ている。自分の言葉に責任も自覚もなく、その場の思いつきで口先からでた僕の言動には、さぞかし多くの人の信頼を失い、迷惑をかけていたでしょう。本当にすみませんでした。


自分への卑下はこの位にして、本題に入ります。「なりたい姿」などと考えるようになったのは新チームが始まってすぐのことだった。新チームが始まってすぐに怪我をしたのがきっかけだった。高校の時から怪我が多く、大学でのサッカーが始まってからもちょくちょく怪我をしていて、練習を離脱することも多々あり、今回の怪我は全治2〜3ヶ月ほどでした。普段の僕なら、「またか」くらいだっただろう。しかし、今回は違い、12月に4回生の方々が引退し、1ヶ月という長期オフが明け、新チームが始動し、A・Bチームに分かれる時だった。タイミングが悪かった。去年の反省を生かして頑張ろうと思った矢先だった。かなり悔しかった。「なんで今やねん」と何度も思った。チームメイトが一生懸命努力している姿、その日のプレーについて練習が終わってもずっと議論している姿、1日ずつ着実に前に進んでいる姿、それをベンチでただ眺めているだけの自分。これほどまでに辛かったことはなかった。正直なところ練習に行くのも辛かった。今まで自分がピッチの中で見ていた景色とは全く違った。自分だけが置いていかれるような気になり、自分の存在意義までもわからなくなった時もあった。自分がいなくてもなんとかなる。自分の存在意義なんてその程度だとも思った。確かに自分1人がチームにいなくても対して影響はないだろう。だが、今思い返すと、焦燥感だったり、先が見えない怪我に対する不安、私生活での悩み事など様々な要因が重なり合い、敏感になっていただけなのかもしれない。ただ、それほどまでにサッカーをしない生活がしんどかった。


僕からサッカーをとれば何が残るのか。

グラウンドにあるベンチに一人で座りながら練習に励むチームメイトをみて、自分は何をしているのかとういうことを考えることが増えた。そう考えるうちに、自分がどんな人間なのかについても考えるようにもなった。


そんな中であることに気がついた。「嫌だ」、「やりたくない」その言葉が言えなかったことだ。心の中では不満に思っていてもそれを表現できなかった。たいていのことは「いいよ」と受け入れてしまっていた。


「これが本当に自分のなりたい姿なのか?」


そんなはずがなかった。

何のために、自分を押し殺してまで他人に尽くすのか。その答えは、自分が他人本位な生き方をしているからだ。今まで、何をするにしても他人のことを考えていて、相手がどう思うか、どのように感じるのか、といったことを無意識のうちに考えていた。自分のなりたい姿は「他人から好かれる人、やさしい人」だったのだろう。自分を良く見せて、「いい人」であろうとしていた。

ただ、「いい人」であろうとしていてもそれは結局のところ他人からすれば「都合のいい人」。やさしくも何ともない。ただ、自分という人間を認めてもらうための、自分の存在意義を他人に肯定してもらうだけの行動に過ぎなかった。


ただ、そのことに対しても無意識のうちにストレスを感じていた。怪我をして自分に余裕がなくなると、それが一気に溢れ出した。なぜここまで他人に尽くさなければならないのか。なぜ自分がしたいことはできないのに、自分が他人にそこまで尽くさなければならないのか。


「なら、本当に自分がなりたい姿は何か?」


何日も悩みに悩んだ結果、具体的な姿はどうしても浮かばなかった。


「自分になること」


これが、最終的に出した答えだった。

冒頭でも話したように、僕はからっぽな人間だ。自分の考えも意見もふらふらしていて、考え方の「芯」なんてものはなく、その場の思いつきで行動してしまう。そんな人間であることを肯定する訳ではない。ただ、他人本位の生き方をやめて、自分と向き合う生き方をする。我慢なんてし過ぎなくていい。自分の気持ちに正直になり、他人の目など気にしない。自己中心的になるわけではない。自分の意見を表現する、嫌なことは断る。「いい人」をやめる。


長々と自分語りをしてしまい、誰得な文章になった上に、拙く読みづらい文章だったと思いますが、最後まで読んでくださりありがとうございました。


「終わりを意識して」 2年 一井倫太郎


こんにちは。2回の一井倫太朗です。

こういった文章を書く場で初めに、「読みづらい文章ですが〜」と予防線を張るのはダサいと同期の間で散々盛り上がったので書き始めがわかりません。拙い文章ですが、最後まで読んでいただけると幸いです。


僕がサッカーを始めたのは5歳のときで、なぜサッカーをしたいと思ったのかは正直覚えていません。きっかけもサッカーをする理由も曖昧なままでしたが、今でも僕の人生の中心にはサッカーがあります。そんな僕が大学でぶち当たった壁についてお話します。


「大学でも部活するってすごいな〜」

この言葉を友達から言われる度、違和感を持つと同時に自分の痛いところをつかれたような感覚を覚えます。大学に入っても本気でサッカーをするんだろうなとなんとなく考えていた僕は、言わば大学サッカーをすることを自分で選択していないからです。幼稚園の頃からずっと変わらず、サッカーをやめる覚悟のなかった僕はずっと、やめるという選択を避けてサッカーを続けてきたのではないかと自身に対して懐疑的になりました。他方で大学に入ってからは別のサークルに入ったり、新しいバイトを始めたり、自分たちで旅行を計画する友達が輝いて見えました。選択を避けている自分に対する後ろめたさから、「すごい」という言葉はとてもじゃないですが受け取りがたいものでした。


かと言って、サッカーをやめるという選択肢もありませんでした。それはおそらく僕はサッカーが大好きだからです。僕のサッカー人生の中で幾度かあった最高の瞬間、そのときの喜びや感動は何にも言い表せないものです。練習してきたことが試合で上手くいった瞬間、チーム一丸となって初めて県大会出場を決めた瞬間、高校サッカーの引退がかかった試合で自分が決勝点を決めた瞬間、そのような理想の瞬間を求めて今もサッカーを続けているのかもしれません。


結局サッカーをする理由は何なのかと言えば、そんなものは大して必要ないのかなと今は考えています。強いて言えば好きだからです。もっと大切なのは辞める覚悟をもつことだと思います。そして大学サッカーという舞台に立って今初めて終わりを意識しています。おそらく本気でやるサッカーは、大学4年間で最後になると思います。あと2年半、どこまで自分は成長できるか、一日一日を大切にしようと思います。


最後に、僕がなんとなくサッカーしたいと思ったのを快くさせてくれ、今もずっとサポートしてくれる両親にはとても感謝しています。また親だけでなく、これまでサッカーを通してつながりを持った友だちやコーチ、先輩、後輩など全ての人に自分のプレーで恩返しをしたいです。サッカーをする理由は無くていいと言いましたが、強いて強いて言うならば、好きであることと感謝です。僕が言う最高の瞬間には必ず、こうしたサッカーを通した周りの人とのつながりが背景にあります。

これらを背景にあと2年半、サッカー人生の終わりまで自分にできることを積み重ねていこうと思います。


部員ブログは以上です。

最後まで読んでいただきありがとうございました。